第96話 伝える先
朝の仕込みを終えたあとも、
エリの指先は落ち着かなかった。
折りたたんだ紙は、胸元にしまったまま。
中身はもう、何度も頭の中でなぞっている。
(条件は……決めた)
問題は、その次だった。
(誰に、最初に伝えるか)
◇ ◇ ◇
「エリ、どうしたんだい」
ハンナが生地を見ながら声をかける。
「……少し、迷ってて」
「珍しいね」
「催事の話なんですけど」
エリは、言葉を選びながら続けた。
「参加するかどうかじゃなくて、
どういう形なら参加できるか……条件を考えて」
ハンナは手を止め、ちらりとエリを見る。
「で、次は?」
「それを、誰に伝えるかで……」
「なるほど」
ハンナは腕を組んだ。
「連合の監督官か、
あの奥様か、ってとこだね」
エリは黙って頷いた。
◇ ◇ ◇
午前の販売がひと段落した頃。
店の外で、エリはセシルに切り出した。
「セシル。
条件の話……誰に先に言うべきだと思う?」
セシルは即答しなかった。
「アークに伝えれば、公式な判断になります」
淡々とした声。
「条件が通るかどうかは別として、
筋としては正しい」
「うん……」
「一方で、ルチア様に相談すれば」
少し間を置く。
「理解を示してくださる可能性は高いでしょう。
影響力も、あります」
「でも……」
エリは、言葉を詰まらせた。
「それって……
後ろ盾を頼る、ってことになるよね」
セシルは、静かに頷いた。
「なります。
同時に、それは選択でもあります」
◇ ◇ ◇
店の奥で、一人になったエリは、
胸元から紙を取り出した。
書かれている条件は、変わらない。
麦猫堂を優先すること。
無理をしないこと。
一人で背負わないこと。
見せ物にならないこと。
(これを……誰に渡す?)
アークに出せば、
評価と選別の目に晒される。
ルチアに見せれば、
守られる代わりに、距離が縮む。
(どっちも、正しい)
(どっちも、少し怖い)
◇ ◇ ◇
夕方、店を閉める前。
エリは、パン籠を片付けながら言った。
「セシル。
今日は……まだ決めない」
「それでよいと思います」
「でも」
エリは顔を上げた。
「逃げないために、期限は決めたい」
セシルは一瞬、驚いたように目を細めた。
「……いつまでに?」
「次に、どちらかから声がかかった時。
その時には、はっきり伝える」
「条件を、ですか」
「うん」
その言葉には、迷いよりも覚悟があった。
◇ ◇ ◇
夜。
店を出る前に、
エリは紙をもう一度折り直した。
(私はもう、待つ側じゃない)
誰にどう伝えるか。
それを選ぶのも、自分だ。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(通常) +24
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +44
借金残高 21,788 → 21,744リラ
セシルの一口メモ
条件を持つ者は、
伝える相手まで選ばなければなりません。
どちらを選んでも、
それは主体的な一歩です。




