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第93話 選ばない時間の重さ

麦猫堂へ戻る道すがら、

エリはほとんど口を開かなかった。


石畳を踏む音だけが、やけに大きく聞こえる。


(選ぶか、選ばないか……)


机の上に置かれていた書類の感触が、

まだ指先に残っている気がした。


「エリ」


隣を歩くセシルが、静かに声をかける。


「……はい」


「今は、答えを出さなくて構いません」


「うん……分かってる」


分かっている。

けれど――考えないでいられるほど、軽い話ではなかった。


   ◇ ◇ ◇


店に戻ると、

麦猫堂はいつも通りの匂いに満ちていた。


焼きかけのパン。

小麦とバターの香り。

忙しなく動くハンナの背中。


「おかえり! ちょうどいいところだよ!」


ハンナの声は、いつもと変わらない。


「エリ、悪いけど生地の様子見てくれるかい」


「……はい」


台に向かい、生地に触れた瞬間、

エリはわずかに息を吐いた。


(あ……)


指先に伝わる、いつもの感触。

柔らかくて、少し温かい。


「大丈夫そうだねえ」


ハンナが横から覗き込む。


「顔が戻ってきたよ」


「……え?」


「さっきまで、ちょっと遠くにいた顔だった」


図星だった。


「何かあったなら、無理に話さなくていい」

ハンナはそう言って、生地を受け取る。

「でもさ、パン焼いてる間は、ここにいな」


その言葉に、胸が少し緩んだ。


   ◇ ◇ ◇


午後。

店頭に立ちながら、エリは客の声を聞く。


「今日もいい香りだね」

「この前のパン、美味しかったよ」


ひとつひとつに、きちんと応える。

声は、思ったより落ち着いていた。


(今は……これでいい)


催事の舞台も、連合の視線も、

今この瞬間、パンを待つ人たちの前では関係ない。


選ばない時間。

それは逃げではなく、整える時間なのだと――

そう思いたかった。


   ◇ ◇ ◇


閉店後。

帳簿をつけ終えたところで、エリは小さく息を吐いた。


「今日は、普通の日だったね」


「それは、貴重なことです」

セシルが即座に返す。


「普通でいられる時間は、永遠ではありません」


「……うん」


分かっている。

だからこそ、今はこの時間を大切にしたい。


エリは、パン台の上に置かれた布を整えながら言った。


「セシル。

 私……まだ決められない」


「それで構いません」


「でも、決めなきゃいけない時が来るんだよね」


「ええ。

 ですがその時、今日の積み重ねは必ず力になります」


エリは、ゆっくり頷いた。


(選ばない時間も、無駄じゃない)


そう信じたいと思えた夜だった。


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目 内容 金額リラ

収入 店頭販売(通常) +22

収入 店舗手伝いの取り分 +20

合計 +42


借金残高 21,916 → 21,874リラ


セシルの一口メモ


答えを出さない時間は、

逃げではなく準備です。

焦らず、足元を確かめて進みましょう。

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