第92話 選択を迫られる場所
机の上に置かれた書類から、エリはしばらく目を離せずにいた。
連合主催の催事。
その名前だけで、空気が一段重くなった気がする。
(これは……)
胸の奥で、何かが静かに音を立てて動き始めていた。
「説明しましょう」
監督官アークが、淡々と口を開いた。
「これは、商人連合が主催する定例の催事です。
表向きは交流と取引の場。
実際には――」
一拍置く。
「将来性のある者を、表に引き上げるための舞台でもあります」
エリは息をのんだ。
「私が……そこに?」
「正確には、候補です」
アークは即答した。
「準会員の中でも、一定以上の注目を集めた者にだけ、
参加の打診がなされます」
セシルが一歩前に出る。
「それは、名誉であると同時に――
標的にもなり得る、という理解でよろしいですね」
「その通りです」
アークは視線を逸らさずに頷いた。
「だからこそ、今すぐ参加を求めることはしません」
エリの胸が、わずかにざわつく。
「では……この書類は?」
「選択肢の提示です」
アークは静かに続けた。
「参加するか、辞退するか。
あるいは、時期をずらすか。
決めるのはあなた自身です」
「……今は、どうすべきなんでしょうか」
思わず漏れた問いに、アークは即答しなかった。
その代わり、少しだけ声を低くする。
「正直に言います」
空気が引き締まる。
「今のあなたは、少し目立ちすぎています」
その言葉に、エリの背筋が伸びた。
「街での評判。
貴族邸への納品。
噂と憶測が、あなたの過去と結びつき始めている」
セシルの表情が、わずかに険しくなる。
「……それを踏まえての助言ですか」
「ええ」
アークはきっぱりと言った。
「当面は、動きを抑えるべきでしょう。
今以上に目立つ行動は控えてください」
エリは、机の上の書類を見る。
催事の名は、変わらずそこにあった。
「ですが」
アークは続けた。
「この話そのものを、無かったことにはできません」
「……」
「名を知られた以上、いずれ必ず表舞台に立つ機会は訪れます。
それを早めるか、遅らせるか。
選ぶ権利があるのは、今だけです」
静寂が落ちる。
エリは、ゆっくりと息を吸った。
(目立たないようにしろ、でも――
逃げ続けることはできない)
矛盾しているようで、どちらも現実だった。
「……考える時間を、いただけますか」
「もちろん」
アークは即座に頷いた。
「急かすつもりはありません。
ただし――」
視線が鋭くなる。
「決断を先延ばしにし続けることも、選択の一つだと自覚してください」
それだけ告げると、アークは席を立った。
扉が閉まり、室内に静けさが戻る。
エリは、机の上の書類にそっと手を置いた。
(これは……
ただの催事じゃない)
自分のこれからを、
どこまで差し出すのかを問われている。
新しい局面は、もう始まっていた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 — 0
支出 — 0
合計 ±0
借金残高 21,916リラ(変動なし)
セシルの一口メモ
選ばされる時点で、すでに舞台には立っています。
踏み出すか、踏みとどまるか。
どちらであっても、覚悟だけは手放さないでください。




