第89話 接触未満
朝の仕込みを終えたころ、
麦猫堂の前を、同じ人物が二度通った。
(……また)
昨日と同じ足取り。
同じ、店ではなく人を見る視線。
エリは生地を置き、深く息を吸った。
(怖がらない。
でも、見過ごさない)
◇ ◇ ◇
午前の営業は、いつも通りだった。
「このパン、最近よく聞くね」
「朝にちょうどいい味なんだよな」
小さな会話が積み重なる。
売れ行きも、急に伸びることはない。
だが、違和感は消えなかった。
「セシル」
「はい」
「今日……誰か、外で見てない?」
「ええ。
二人ほど、一定の距離を保っていました」
「……やっぱり」
「接触はしてきません。
観察段階でしょう」
エリの背中に、静かな緊張が走る。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
一人の男が店に入ってきた。
昨日の客とは違うが、
同じ匂いがする。
「陽だまりパンを」
「はい」
包みを渡すと、男は視線を上げた。
「……この店、
前は違う名前だったか?」
「いいえ。
最初から麦猫堂です」
「そうか」
それ以上は聞かず、男は去った。
セシルが小さく息を吐く。
「探りですね」
「名前を確かめに来た、ってこと?」
「ええ。
本人確認に近い」
エリは、指先をぎゅっと握った。
◇ ◇ ◇
閉店後。
ハンナが帳簿を見ながら言った。
「今日は妙な客が多かったねえ」
「……やっぱり?」
「パンを買うより、
店を見てる感じの連中さ」
エリは、正直に打ち明けた。
「私のこと、
調べてる人がいるみたい」
ハンナは一瞬黙り、
それからゆっくり言った。
「なら、尚更だ」
「え?」
「変に縮こまるんじゃない。
いつも通り、ちゃんとやる」
その言葉は、厳しくも温かかった。
◇ ◇ ◇
夜。
店を閉めた後、
エリとセシルは並んで帰路につく。
「セシル」
「はい」
「もし……
私の過去が原因なら、
迷惑、かけてるよね」
セシルは、すぐに首を振った。
「迷惑ではありません」
「でも……」
「エリがここにいることは、
誰の罪でもない」
その声は、静かで揺るぎなかった。
「問題があるとすれば、
それを利用しようとする側です」
エリは、少しだけ肩の力を抜いた。
(逃げなくていい)
それが、今の答えだった。
◇ ◇ ◇
同じ夜。
路地裏で、短い会話が交わされる。
「近づけたか」
「いや。
警戒が強い」
「執事がいる限り、
強引には動けん」
「……なら」
一拍、間があく。
「正式な筋から、揺さぶる」
影は、それだけ言って散った。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目|内容金額
収入|店頭販売(通常)|+26
収入|店舗手伝いの取り分|+20
合計||+46
借金残高:21,996 → 21,950リラ
セシルの一口メモ
触れずに揺らす。
それは最も卑怯で、
同時に最も警戒すべき手段です。




