表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/47

第8話 焦げと祝福

朝の鐘が鳴る前、街角にパンの香りが広がっていた。

 昨日と同じ時間、同じ場所。けれど、胸の高鳴りは少し違う。

 もう任されることには慣れてきたはずなのに、

 今日はなぜか、新しい挑戦の朝に思えた。


「火、よし。粉、よし。……緊張、よし」


 誰もいない厨房で独り言を言うと、少しだけ笑えてくる。

 ハンナは仕入れに、セシルは帳簿の確認で商業組合へ出ている。

 この店を動かすのは、今のところ私ひとり。


 粉の袋を抱え、こね台の上に広げる。

 ふわりと舞う白い粒が、朝の光を弾いた。

 あの日、初めてパンを焦がしたときの私とは、もう違う。

 けれど、まだ完璧には遠い。


「今日も焦げゼロを目指すわよ」


     ◇ ◇ ◇


 焼き上がった陽だまりパンは、今朝もよく膨らんだ。

 ただ、オーブンの火を強くしすぎたのか、

 いくつかの表面がほんの少し、濃い金色をしている。


「……まぁ、焼き色ってことで」


 苦笑しながら並べていると、ドアの鈴が鳴った。

 最初のお客さんだ。


「おはようございます、陽だまりパンありますか?」


「はい! 焼きたてです!」


 袋に入れた瞬間、ふわっと焦げの香りが混じった。

 ――少し強かった。

 けれどそのお客さんは、袋を抱えて笑った。


「いい匂いだね。寒い朝は、ちょっと焦げてるくらいが温まるんだ」


 その言葉に、肩の力が抜けた。


「ありがとうございます。またお越しくださいね」


「もちろん。焦げてても、うまけりゃ正義だろ?」


 笑いながら去っていく背中を見送り、私はそっと息をついた。

 焦げの匂いが、どこか祝福のように感じられた。


     ◇ ◇ ◇


 昼頃、セシルが戻ってきた。

 帳簿を脇に抱え、いつもより少し早足だ。


「お嬢様、状況報告を」


「売れ行き好調、ただし一部に焦げ気味報告あり」


「焦げ気味……?」


「ちょっと焼きすぎただけ。でも、お客さんが焦げてもおいしいって言ってくれたの」


 セシルは一瞬だけ考え込み、すぐに微笑んだ。


「それは貴重なフィードバックです。焦げは失敗ではなく、個性です」


「あなたがそんなこと言うなんて意外ね」


「学習能力です。お嬢様の陽だまりパンは、失敗さえも温かい」


「うまいこと言うじゃない」


「事実申告です」


 二人で笑った。

 パンの香りが、昼の光と混ざり合ってやさしく漂う。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、ハンナが帰ってきた。

 棚を見て、目を丸くする。


「全部、売り切れ? 焦げたのも?」


「はい。……少し焦がしましたけど、お客さんが喜んでくれて」


「焦がした? へぇ、それはいい経験したね」


「いい経験……ですか?」


「焦げの匂いってのはね、頑張った証拠なんだよ。

 焦げるまで焼いたってことは、パンに向き合ってた証拠さ」


 その言葉に胸が熱くなった。

 焦げを誇りに思っていいんだ。

 完璧じゃなくても、努力の匂いは人を笑顔にできる。


「……ハンナさん、今日もありがとうございます」


「礼はいらない。焦げがあったら次に生かす。それが職人の仕事さ」


 その言葉を、胸の奥に刻んだ。


     ◇ ◇ ◇


 夜、店を閉めたあと。

 私は焼き残った小さなパンを手に取り、セシルと分け合った。


「少し焦げてるけど……ほら」


「ありがとうございます。……うん、確かにこれは努力の味ですね」


「笑わないでよ」


「笑っていません。祝福しています」


「祝福?」


「はい。焦げの苦味は、努力の勲章です」


「詩人みたいなこと言うじゃない」


「職業病です。お嬢様に影響されています」


 小さな焦げ目をかじる。

 香ばしさの向こうに、かすかな甘みが残っていた。

 それが、今日いちばんおいしかった。


     ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入日給+20

収入完売歩合+30

合計+50

借金残高24,841 → 24,791


セシルの一口メモ:

「焦げ」を「香ばしさ」と呼び直す発想。

お嬢様、言葉ひとつで価値は変わるのです。

それが“祝福”という名の再定義。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ