第8話 焦げと祝福
朝の鐘が鳴る前、街角にパンの香りが広がっていた。
昨日と同じ時間、同じ場所。けれど、胸の高鳴りは少し違う。
もう任されることには慣れてきたはずなのに、
今日はなぜか、新しい挑戦の朝に思えた。
「火、よし。粉、よし。……緊張、よし」
誰もいない厨房で独り言を言うと、少しだけ笑えてくる。
ハンナは仕入れに、セシルは帳簿の確認で商業組合へ出ている。
この店を動かすのは、今のところ私ひとり。
粉の袋を抱え、こね台の上に広げる。
ふわりと舞う白い粒が、朝の光を弾いた。
あの日、初めてパンを焦がしたときの私とは、もう違う。
けれど、まだ完璧には遠い。
「今日も焦げゼロを目指すわよ」
◇ ◇ ◇
焼き上がった陽だまりパンは、今朝もよく膨らんだ。
ただ、オーブンの火を強くしすぎたのか、
いくつかの表面がほんの少し、濃い金色をしている。
「……まぁ、焼き色ってことで」
苦笑しながら並べていると、ドアの鈴が鳴った。
最初のお客さんだ。
「おはようございます、陽だまりパンありますか?」
「はい! 焼きたてです!」
袋に入れた瞬間、ふわっと焦げの香りが混じった。
――少し強かった。
けれどそのお客さんは、袋を抱えて笑った。
「いい匂いだね。寒い朝は、ちょっと焦げてるくらいが温まるんだ」
その言葉に、肩の力が抜けた。
「ありがとうございます。またお越しくださいね」
「もちろん。焦げてても、うまけりゃ正義だろ?」
笑いながら去っていく背中を見送り、私はそっと息をついた。
焦げの匂いが、どこか祝福のように感じられた。
◇ ◇ ◇
昼頃、セシルが戻ってきた。
帳簿を脇に抱え、いつもより少し早足だ。
「お嬢様、状況報告を」
「売れ行き好調、ただし一部に焦げ気味報告あり」
「焦げ気味……?」
「ちょっと焼きすぎただけ。でも、お客さんが焦げてもおいしいって言ってくれたの」
セシルは一瞬だけ考え込み、すぐに微笑んだ。
「それは貴重なフィードバックです。焦げは失敗ではなく、個性です」
「あなたがそんなこと言うなんて意外ね」
「学習能力です。お嬢様の陽だまりパンは、失敗さえも温かい」
「うまいこと言うじゃない」
「事実申告です」
二人で笑った。
パンの香りが、昼の光と混ざり合ってやさしく漂う。
◇ ◇ ◇
夕方、ハンナが帰ってきた。
棚を見て、目を丸くする。
「全部、売り切れ? 焦げたのも?」
「はい。……少し焦がしましたけど、お客さんが喜んでくれて」
「焦がした? へぇ、それはいい経験したね」
「いい経験……ですか?」
「焦げの匂いってのはね、頑張った証拠なんだよ。
焦げるまで焼いたってことは、パンに向き合ってた証拠さ」
その言葉に胸が熱くなった。
焦げを誇りに思っていいんだ。
完璧じゃなくても、努力の匂いは人を笑顔にできる。
「……ハンナさん、今日もありがとうございます」
「礼はいらない。焦げがあったら次に生かす。それが職人の仕事さ」
その言葉を、胸の奥に刻んだ。
◇ ◇ ◇
夜、店を閉めたあと。
私は焼き残った小さなパンを手に取り、セシルと分け合った。
「少し焦げてるけど……ほら」
「ありがとうございます。……うん、確かにこれは努力の味ですね」
「笑わないでよ」
「笑っていません。祝福しています」
「祝福?」
「はい。焦げの苦味は、努力の勲章です」
「詩人みたいなこと言うじゃない」
「職業病です。お嬢様に影響されています」
小さな焦げ目をかじる。
香ばしさの向こうに、かすかな甘みが残っていた。
それが、今日いちばんおいしかった。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入日給+20
収入完売歩合+30
合計+50
借金残高24,841 → 24,791
セシルの一口メモ:
「焦げ」を「香ばしさ」と呼び直す発想。
お嬢様、言葉ひとつで価値は変わるのです。
それが“祝福”という名の再定義。




