第88話 名前が出回る時
朝の仕込みが始まる少し前。
麦猫堂の前を、見慣れない足音が通り過ぎていった。
(……今の)
エリが顔を上げた時には、もう通りはいつも通りだった。
「どうかしましたか」
「ううん。気のせい、かな」
そう答えながらも、
胸の奥に小さな引っかかりが残る。
◇ ◇ ◇
午前の営業は静かだった。
客数は多くないが、流れは安定している。
「この店、最近よく名前を聞くんだよ」
「派手じゃないのに、不思議と覚えるんだよな」
そんな声が、自然に混じる。
(名前……)
昨日の言葉が、ふとよみがえった。
急げば壊れる。
遅すぎれば奪われる。
エリは、生地を整えながら考える。
(私は、今どこにいるんだろう)
◇ ◇ ◇
昼前。
セシルが、店の外から戻ってきた。
「何かありましたか」
「少し、耳に入った話があります」
声を落とし、セシルは続ける。
「南の商業区で、
麦猫堂の名前が出始めています」
「評判、かな」
「それだけではありません」
エリの手が止まる。
「誰が、どのように評価しているか。
そういう話題です」
「……評価」
「条件を出さずに見ている者がいる。
その存在が、別の者たちを刺激しているようです」
胸の奥が、ひゅっと縮んだ。
(静かにしてたつもりなのに)
◇ ◇ ◇
午後。
いつもより遅い時間に、
一人の客が入ってきた。
年齢は分からない。
だが、視線が店ではなく、エリを見ている。
「陽だまりパンを一つ」
「はい」
包んで差し出すと、
男は代金を置きながら言った。
「この店の娘だな」
一瞬、空気が張る。
「……そうです」
「安心しろ。
今日は、買いに来ただけだ」
それだけ言って、男は去った。
セシルが、すぐにエリの横に立つ。
「無理に追わなくていい」
「……うん」
だが、はっきり分かった。
(知らない人が、私を知ってる)
それは噂ではなく、
意識的に集められた情報だ。
◇ ◇ ◇
閉店後。
帳簿を閉じながら、エリは小さく息を吐いた。
「ねえ、セシル」
「はい」
「私……
静かにしてるだけじゃ、足りないのかな」
セシルは少し考えてから答えた。
「静かにすることと、
備えないことは別です」
「備え……」
「名前が出回るなら、
それに耐えられる形を整える必要があります」
エリは、ゆっくり頷いた。
(逃げない。
でも、無理に前へも出ない)
今は、その位置で踏ん張る時だ。
◇ ◇ ◇
夜。
店の外、少し離れた路地で。
「間違いないな」
「うん。
名前も、顔も一致した」
低い声が、闇に溶ける。
「まだ動くな」
「だが、準備は始める」
影は、静かに散った。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目|内容金額
収入|店頭販売(控えめ)|+24
収入|店舗手伝いの取り分|+20
合計||+44
借金残高:22,040 → 21,996リラ
セシルの一口メモ
名が知られるということは、
光だけでなく影も集めます。
今は、耐える力を整える時期です。




