第87話 条件のない条件
朝の空気は澄んでいた。
麦猫堂の前を通り抜ける風が、焼き上がり前の生地の匂いを運んでいく。
(今日は……変に緊張してない)
昨日の評価めいた視線を思い出しても、
胸は不思議と落ち着いていた。
「エリ、発酵いい感じだよ」
「うん。ありがとう」
ハンナの声に頷きながら、
エリは自分の手の動きを確かめる。
(いつも通り。
それが、今の一番だ)
◇ ◇ ◇
午前中の客足は穏やかだった。
爆発的ではない。
けれど、途切れない。
パンを選ぶ時間が短く、
迷う視線も少ない。
(昨日より、さらに自然だ)
棚に並んだ陽だまりパンは、
説明を待たずに手に取られていく。
そこへ。
扉が開いた。
昨日の男ではない。
だが、雰囲気は似ていた。
無駄のない服装。
視線は低く、動きは静か。
「いらっしゃいませ」
エリが声をかけると、
男は軽く頷いた。
「噂は本当だな」
「……どの噂でしょうか」
セシルが一歩前に出る。
「味だけじゃない。
売り方も、空気もだ」
男はパンを一つ手に取り、
棚と店内を一度だけ見回した。
「条件はないのか」
「条件、ですか?」
エリが問い返す。
「大量注文の話が来ているはずだ。
断る理由は、条件が合わないからじゃないのか」
一瞬、店内の空気が静まった。
エリは正直に答えた。
「条件で断ったわけじゃありません。
今は、できる量しか作らないと決めているだけです」
「利益は」
「後からでいいと思っています」
男は小さく息を吐いた。
「なるほど」
◇ ◇ ◇
男はパンを包ませると、
代金を置いて言った。
「評価は続く」
「評価、ですか」
「数字だけを見る者もいる。
だが、それだけでは測れないものもある」
視線が、エリに向く。
「君の店は、まだ広げないほうがいい」
一瞬、胸がざわついた。
「……それは、忠告ですか」
「助言だ」
男は淡々と言った。
「急げば、壊れる。
だが、遅すぎても奪われる」
意味を問う前に、
男は背を向けた。
「名は、今は名乗らない」
そう言い残し、店を出ていく。
◇ ◇ ◇
「……なんだったんだろう」
エリが小さく呟く。
「条件を出さない条件、ですね」
セシルは落ち着いて答えた。
「評価しながら、踏み込まない。
同時に、周囲への牽制でもある」
「牽制?」
「この店には、
雑に扱えない理由があると示したのです」
エリは、胸の奥で何かが噛み合うのを感じた。
(守られてる……わけじゃない。
でも、見られてる)
それは怖さより、
責任に近い感覚だった。
◇ ◇ ◇
午後。
店は静かだったが、
一人一人の滞在時間が長い。
「落ち着くね、この店」
そんな言葉が、何度か耳に入る。
(それで、いい)
エリはパンを並べながら思った。
(広げるのは、
準備が整ってからでいい)
◇ ◇ ◇
閉店前。
最後の客を見送り、
エリは息を吐いた。
「今日も、無事終わったね」
「ええ。良い一日でした」
セシルの声は穏やかだった。
「条件を出されなかったことを、
不安に思う必要はありません」
「うん。
今は、ちゃんと焼くことに集中する」
その答えに、
セシルは小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目|内容金額
収入|店頭販売(安定)|+26
収入|店舗手伝いの取り分|+20
合計||+46
借金残高:22,086 → 22,040リラ
セシルの一口メモ
条件を急がない者ほど、
本気で価値を見極めています。
今は、焦らず積み重ねる時です。




