第86話 評価の先にあるもの
昨日の男の視線が、エリの中から完全に消えることはなかった。
朝の仕込みをしながらも、
生地の感触の奥で、ふとした違和感が引っかかる。
(パンの出来は……いつも通り。
なのに、なんでこんなに気になるんだろう)
「エリ、火加減ちょうどいいよ」
「うん、ありがとう」
ハンナの声に応じながら、エリは深呼吸をひとつした。
考えすぎても、手が鈍るだけだ。
◇ ◇ ◇
午前の営業は、静かに始まった。
常連が一人、
通りすがりの客が二人。
大きな波はないが、安定した流れだ。
その中で、エリは一つの変化に気づいた。
(昨日より……迷う人が少ない?)
棚の前で立ち止まり、
説明を待つことなくパンを手に取る客が増えている。
「このパン、噂どおりだね」
「朝にちょうどいいって聞いたよ」
言葉は短いが、選ぶまでの時間が確実に減っていた。
(評価って……
味だけじゃなくて、安心感なんだ)
エリは、昨日の男の視線を思い出す。
売り場ではなく、
店全体の流れを見ていた目。
(あの人は……
こういう変化を見に来たんだ)
◇ ◇ ◇
昼前。
店の外で、誰かが立ち止まる気配がした。
「……来た」
セシルが小さく呟く。
扉が開く。
昨日と同じ男だった。
服装も、歩き方も変わらない。
だが今日は、迷いなくカウンターへ向かってきた。
「忙しそうだな」
「はい。おかげさまで」
エリが答えると、男は軽く頷いた。
「質問してもいいか」
「……どうぞ」
「この店が混み始めたら、どうする」
一瞬、エリは言葉を探した。
「……無理な数は出しません。
焼ける分だけを、ちゃんと出します」
「利益は」
「後からついてくると思っています」
男の口元が、わずかに緩んだ。
「いい答えだ」
それだけ言って、男は陽だまりパンを一つ取る。
「また来る」
短い言葉を残し、店を出ていった。
◇ ◇ ◇
「……やっぱり、評価だったね」
エリが息を吐く。
「ええ。しかも今日は、確認です」
「確認?」
「昨日見た流れが、偶然ではないかどうか」
セシルは淡々と続けた。
「一日で崩れる店も多い。
だから彼は、二日目を見に来た」
「じゃあ……」
「合格かどうかは、まだ先でしょう」
だが、セシルの声は落ち着いていた。
「少なくとも、落第ではありません」
その言葉に、エリの肩の力が少し抜けた。
(まだ途中。
でも、ちゃんと前に進んでる)
◇ ◇ ◇
夕方。
焼き上がった最後のパンを並べながら、
エリは静かに思った。
(見られるのは怖い。
でも……見られないままより、ずっといい)
自分が選んだ道の先に、
誰かの視線があるということ。
それは試されている証であり、
期待されている証でもある。
「エリ」
「なに?」
「今日は、よく持ちました」
セシルの言葉に、エリは小さく笑った。
「うん。
明日も、ちゃんと焼くよ」
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目|内容金額
収入|店頭販売(安定)|+28
収入|店舗手伝いの取り分|+20
合計||+48
借金残高:22,134 → 22,086リラ
セシルの一口メモ
評価とは、一度きりの判断ではありません。
継続の中にこそ、本当の価値は現れます。




