第85話 見られている視線
朝の麦猫堂は、いつもより少し静かだった。
焼き上がりを待つ生地の匂いと、火の音だけが店内に満ちている。
エリはカウンター越しに、今日の客の流れをぼんやりと眺めていた。
(最近……何かが違う)
忙しくないわけではない。
むしろ客足は安定している。
けれど、どこか落ち着かない感覚が胸の奥に引っかかっていた。
「エリ、次の焼きに入るよ」
「うん、今行く」
厨房へ向かおうとした、そのときだった。
入口の扉が開き、一人の男が店内に入ってくる。
派手さのない服装。
だが、姿勢と歩き方に無駄がない。
エリは無意識に、その男を目で追っていた。
(……この人)
男はすぐに商品棚へ向かわなかった。
視線を動かしながら、店内全体を静かに観察している。
その視線は、売り場そのものよりも、店全体の流れを追っていた。
客がどこで立ち止まり、
どこで迷い、
どのタイミングで購入を決めるのか。
まるで数字を読むような目だった。
「いらっしゃいませ」
エリが声をかけると、男はようやくこちらを向いた。
「ここが麦猫堂か」
「はい。そうです」
「噂は聞いている」
それ以上は何も言わず、男は陽だまりパンを一つ手に取った。
「これを」
「ありがとうございます」
金を置き、パンを受け取る。
だが男はすぐに食べず、袋越しに軽く重さを確かめてから、エリを見た。
「……丁寧な店だな」
それだけ言って、男は踵を返した。
扉が閉まる。
店内に、元の音が戻るまで、数秒かかった。
「今の人……」
ハンナが厨房から顔を出す。
「何かあったかい?」
「ううん。ただ……見られてた感じがして」
「見られてた?」
「うん。パンじゃなくて、お店そのものを」
ハンナは一瞬だけ考え込み、肩をすくめた。
「まあ、そういう客もいるさ。気にすることじゃない」
だが、エリの胸のざわつきは消えなかった。
その様子を、少し離れた場所で見ていたセシルが、静かに口を開く。
「エリ。気づきましたか」
「……セシルも?」
「ええ。あの男は、味見に来たのではありません」
「じゃあ……何を?」
「評価です」
短い言葉だったが、重みがあった。
「商売は、成功し始めたときが一番見られます。
味ではなく、崩れる兆しがないかを」
エリは、無意識に手を握りしめていた。
「私……ちゃんと、できてるかな」
「できています」
即答だった。
「だからこそ、見られているのです」
その言葉に、少しだけ背筋が伸びる。
(逃げない。
見られるなら、ちゃんと立つ)
エリはそう心に決め、再び厨房へ戻った。
パンの香りは、変わらずそこにあった。
本日の収支記録
項目|内容金額
収入|店頭販売(通常)|+26
収入|店舗手伝いの取り分|+20
合計||+46
借金残高:22,180 → 22,134リラ
セシルの一口メモ
視線は、成功の証でもあります。
測られる立場に立った時こそ、足元を固めるべきなのです。




