第84話 帳簿の向こう側
閉店後の麦猫堂。
昼の賑わいが嘘のように、店内は静まり返っていた。
ランプの明かりの下、
エリは帳簿を前に座っている。
(今日は……悪くない)
数字だけを見れば、安定している。
派手な跳ね上がりはないが、落ちてもいない。
それでも、視線は自然とページの余白に向かっていた。
「エリ、難しい顔だね」
ハンナが湯気の立つお茶を置く。
「ありがとうございます」
エリは一口含んでから言った。
「今日、商人連合の人が来たでしょう。
売り上げだけじゃなくて、帳簿も見ていって……」
「そりゃあ見るさ」
ハンナは肩をすくめる。
「連合が見てるのは、今日じゃないからね」
「今日じゃ……ない?」
「続くかどうかだよ」
ハンナは帳簿を指で軽く叩いた。
「一日良くても意味はない。
でも、地味でも崩れなければ、それは信用になる」
エリは帳簿に視線を戻す。
売上。
仕入れ。
人手。
無理のない量。
(数字って……冷たいだけじゃない)
そこには、自分たちの動きが全部残っている。
◇ ◇ ◇
「エリ」
セシルが静かに声をかけた。
「帳簿、もう一度整理してみましょう」
「え、今から?」
「はい。
今日の数字自体は問題ありません。
ですが、見る側の視点で整える必要があります」
セシルは紙を取り出し、簡単な線を引いた。
「ここです。
店頭販売と納品分が、同じ列に並んでいる」
「……あ、ほんとだ」
「エリたちには分かります。
ですが、第三者には少し読みづらい」
言われてみれば、その通りだった。
「評価する側は、現場を知らない者も多い。
だからこそ、帳簿は言葉の代わりになります」
「帳簿が……?」
「ええ。
誠実さを示す書類です」
エリは、紙の上の数字を見つめ直した。
(私たち、ちゃんと誠実にやってる)
胸の奥で、小さく何かが整う感覚があった。
◇ ◇ ◇
帳簿を整理し終えた頃、
エリはふと顔を上げた。
「セシル」
「はい」
「評価されるって……
怖いだけじゃないね」
「そうですね」
「見られる分、自分たちのやり方を
ちゃんと説明できるってことだもんね」
セシルは、わずかに頷いた。
「エリは、すでに説明できています。
あとは、続けるだけです」
「続ける……」
「はい。
それが一番、難しくて、強い」
エリは帳簿を閉じた。
(私は、パンを焼くだけの人じゃない)
売る。
守る。
続ける。
その全部を、少しずつ担っている。
「……明日も、ちゃんとやろう」
「ええ。
明日も、いつも通りに」
二人の言葉は重ならなかったが、
向いている先は同じだった。
ランプの明かりの下、
帳簿は静かに閉じられた。
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(通常) +25
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +45
借金残高:22,576 → 22,531リラ
セシルの一口メモ
数字は結果ですが、
帳簿は姿勢を映します。
誠実に積まれた記録は、必ず力になります。




