第82話 内部の視線
文官が帰ったあとの麦猫堂は、
焼き立ての香りとは裏腹に、少し張り詰めた空気を残していた。
「……将来を見据えた話、ねえ」
ハンナが腕を組む。
「今までは売れてるかどうかだったのが、
これからは続くかどうかを見られるってことかい」
「はい」
セシルが短く頷いた。
「数字の安定性、供給の再現性、そして人です」
「人?」
エリが聞き返す。
「誰が作り、誰が管理し、誰が責任を取るか」
セシルの声は淡々としていた。
「連合は、そこを非常に重視します」
エリは、無意識に自分の手を見た。
粉の匂いが染みついた指。
パンを焼くための、ただの手。
(私が……責任……)
胸の奥が、きゅっと縮む。
「難しく考えすぎなくていいよ」
ハンナが言う。
「エリは今まで通りやればいい。
変な小細工はいらない」
「でも……」
エリは言葉を探した。
「連合の人たち、なんだか私を見てた。
パンじゃなくて……私自身を」
セシルの視線が、わずかに鋭くなる。
「それは正しい感覚です」
「え?」
「評価が進むと、商品より作り手を見る段階に入ります」
セシルは静かに続けた。
「誰に任せるか。
長く付き合えるか。
問題を起こさないか」
「……試されてるってこと?」
「はい」
厨房に、短い沈黙が落ちた。
「嫌だなあ」
ハンナが肩をすくめる。
「パン屋はパンで勝負すりゃいいのに」
「理想ではありますが、現実は違います」
セシルはそう言ってから、エリを見る。
「ですが、エリが変わる必要はありません」
「ほんとに?」
「必要なのは、逃げないことだけです」
その言葉に、エリはゆっくり息を吐いた。
(逃げない……)
婚約破棄の日。
屋敷を出た朝。
何度も背を向けてきた。
「……私、逃げないよ」
小さな声だったが、確かだった。
「パンも、評価も、視線も。
全部ちゃんと受け止める」
セシルは、ほんのわずかに目を細めた。
「それで十分です」
そのとき、店の外で足音が止まった。
窓越しに見えるのは、見慣れない背中。
通りすがりを装っているが、立ち止まる時間が長い。
(また……視線)
エリの胸が静かに鳴る。
「セシル……」
「見ています」
即答だった。
「外だけでなく、内側からも」
「内側?」
「商人連合の中にも、
エリを評価する者と、警戒する者がいます」
エリは、はっきりと理解した。
(もう、ただのパン屋じゃないんだ)
良くも悪くも。
望んだかどうかは関係なく。
パンの香りに包まれたこの場所で、
エリは静かに次の段階へ足を踏み入れていた。
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(通常) +26
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +46
借金残高:22,667 → 22,621リラ
セシルの一口メモ
外からの視線より厄介なのは、内部の評価です。
味方かどうかは、時間と結果が教えてくれます。




