第81話 静かな評価
朝の麦猫堂は、いつもと変わらない香りに満ちていた。
小麦の甘さと、焼き上がり直前のぬくもり。
けれどエリの胸の奥には、言葉にできないざわめきがあった。
「……最近、視線が増えた気がする」
ぽつりとこぼすと、向かいで仕込みをしていたハンナが鼻で笑う。
「そりゃそうさ。
クレアル邸に納めて、商人連合の準会員。
名前が広がらないほうがおかしい」
「でも……」
エリは手元の生地を見つめた。
失敗を恐れているわけではない。
ただ、何かが静かに近づいている気がしてならなかった。
「エリ」
背後からセシルの声が落ちる。
「最近、連合の視察が増えています」
「視察……?」
「表向きは通常の確認です。
ですが、担当者の顔ぶれが変わりました」
その言葉に、エリは顔を上げる。
「変わった?」
「はい。
これまでは現場確認が中心でしたが、
ここ数日は数字と安定性を重視する者が来ています」
ハンナが手を止め、真顔になる。
「……評価段階が一つ上がったってことかい」
「その可能性が高いでしょう」
厨房に、ほんの一瞬だけ静寂が落ちた。
「それって……いいこと、だよね?」
エリが恐る恐る尋ねると、セシルは少しだけ間を置いてから答えた。
「良いことでもあり、重くなることでもあります」
「重くなる……」
「期待は、守るべき条件を増やします。
そして条件が増えれば、干渉も増える」
エリの胸が小さく鳴った。
(やっぱり……ただ順調なだけじゃない)
その時、店の扉が開いた。
「おはようございます」
入ってきたのは、商人連合の文官だった。
以前にも見た顔だが、今日は立ち位置が違う。
「麦猫堂さん。
今後の供給体制について、少しお話を」
ハンナとエリが視線を交わす。
「……今ですか?」
「はい。
大きな話ではありません。
ただ、確認を」
セシルが一歩前に出る。
「承ります。
ですが業務に支障が出ない範囲でお願いします」
文官は軽く笑った。
「ええ、もちろん。
あくまで将来を見据えた話ですから」
その言葉が、やけに耳に残った。
将来。
見据える。
(……来る)
エリは、はっきりとそう感じていた。
まだ形は見えない。
けれど、静かに評価が積み重なり、
次の段階へ押し上げられようとしている。
パンの香りは変わらない。
それでも世界の温度が、少しだけ変わり始めていた。
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(通常) +28
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +48
借金残高:22,715 → 22,667リラ
セシルの一口メモ
評価とは、音もなく積み上がるものです。
気づいた時には、次の扉の前に立たされている。
備える者だけが、その先を選べます。




