第80話 差し出されたもう一つの道
麦猫堂の朝は、いつも通りパンの香りから始まった。
だがその奥に、わずかな緊張が混じっている。
仕入れはひとまず確保できた。
けれど、それがいつまで続くかは分からない。
「……考えること、増えたね」
エリが小さく息を吐く。
「成長している証です」
セシルは淡々と返した。
「問題は、選択肢が増えた時にどう選ぶか」
その時だった。
扉の鈴が、控えめに鳴った。
「おはようございます」
聞き覚えのある、落ち着いた声。
「アンナさん」
クレアル邸の家令補佐が、丁寧に一礼する。
「本日は奥様のご伝言をお預かりしております」
ハンナが手を止めた。
「朝から改まってるね。
何かあったのかい」
「はい。
陽だまりパンの件についてです」
エリの背筋が、自然と伸びた。
◇ ◇ ◇
店の奥、簡素なテーブルを挟んで三人が向かい合う。
アンナは小さな封書を差し出した。
「奥様は、最近の街の動きを把握しておられます」
「その上で、無理な拡大や不安定な仕入れを懸念なさいました」
エリは唇を噛む。
「それで……?」
「クレアル邸が利用している農家の一部を、
紹介したいとのことです」
空気が、一瞬止まった。
「……紹介、ですか」
「はい。
独占ではありません。
あくまで取引先として」
ハンナが目を細める。
「貴族の後ろ盾ってやつだね。
正直に言えば、楽にはなる」
アンナは否定も肯定もしなかった。
「奥様はこうおっしゃいました。
選ぶのは、エリさん自身だと」
◇ ◇ ◇
アンナが帰ったあと、
店内はしばし沈黙に包まれた。
「どう思う?」
ハンナが先に口を開く。
「安定はする。
でも、目立つ」
「……うん」
エリはテーブルを見つめた。
クレアル邸の名前は、守りにもなる。
同時に、標にもなる。
「セシルは?」
「慎重に考えるべきです」
即答だった。
「後ろ盾は、時に鎖にもなります」
「でも……」
エリは顔を上げる。
「断ったら、ルチアさんの好意を踏みにじることにならない?」
セシルは一瞬、言葉を探した。
「……あの方は、踏みにじられたとは思わないでしょう」
「どうして?」
「選ぶ力がある者を、尊重する方だからです」
エリは、ルチアの穏やかな眼差しを思い出した。
◇ ◇ ◇
「私……」
エリは、ゆっくり言った。
「今は、まだ自分で掴みたい」
ハンナが目を細める。
「後悔しないかい?」
「分からない。
でも、最初から誰かの傘の下に入ったら、
自分の足で立てなくなる気がする」
セシルは静かに頷いた。
「その選択を、私は支持します」
「ありがとう」
「ただし」
セシルは続ける。
「この先、本当に危険になった時は、
助けを借りることも選択肢に入れましょう」
「うん。約束する」
◇ ◇ ◇
夕方、返書がアンナへ渡された。
内容は簡潔だった。
今は自力で進みたい。
だが、必要な時には相談させてほしい。
封を閉じながら、エリは胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
(私は、逃げなかった)
選ばなかった。
でも、それは拒絶ではない。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入店頭販売(数量制限)+16
収入店舗手伝いの取り分+20
合計+36
借金残高22,189 → 22,153リラ
セシルの一口メモ
差し出された手を取らない勇気も、
また一つの強さです。
選ばなかった道が、
必ずしも間違いとは限りません。




