第79話 本命の仕入れ網
夜明け前。
麦猫堂の裏口に、ひんやりとした空気が流れ込んでいた。
籠に入った小麦袋は少量だが、
質は確かに良い。
「……助かったね」
エリが袋を抱えながら言う。
「応急処置としては十分です」
セシルは静かに頷いた。
「ですが、これを続けるわけにはいきません」
「うん。
いつまでも裏取引じゃ、不安定すぎる」
ハンナも腕を組む。
「つまりだよ。
ちゃんとした仕入れ先を、改めて作るってことだね」
◇ ◇ ◇
朝の仕込みを終えたあと、
三人は店の奥で向かい合った。
「候補は三つあります」
セシルが紙を広げる。
「街外れの小規模農家」
「粉挽き職人の共同体」
「そして……」
一瞬、間を置く。
「個人商人です」
「個人商人……」
エリが小さく復唱した。
「信用は不安定ですが、
圧力がかかりにくい利点があります」
ハンナが鼻を鳴らす。
「癖の強い連中だね。
でも、今は贅沢言ってられないか」
「私が行きます」
エリの声だった。
二人が同時に見る。
「エリ?」
「顔を売る必要があるでしょ。
麦猫堂としてじゃなくて、
私自身として」
セシルは一瞬、迷うように視線を落とし、
やがて頷いた。
「……分かりました。
私も同行します」
◇ ◇ ◇
昼前。
街の東端、倉庫が並ぶ一角。
「ここです」
セシルが示した扉の前には、
看板もない古い建物があった。
中に入ると、
香ばしい粉の匂いが鼻をくすぐる。
「誰だ」
低い声。
現れたのは、
細身で目つきの鋭い男だった。
「麦猫堂の者です」
セシルが名乗る。
「……噂のパン屋か」
男の視線が、エリに移る。
「作り手は、あんたか」
「はい。
エリといいます」
「ふうん」
男は腕を組んだ。
「で、何を求めてる」
「安定した小麦です」
エリははっきり言った。
「量は多くなくていい。
でも、質は落としたくない」
沈黙。
やがて男は、棚から粉を一握り取って差し出した。
「触ってみな」
エリは指で確かめる。
(……いい)
「この粉で焼いたら、
ちゃんと膨らむ」
男が片眉を上げる。
「分かるのか」
「分かります」
短く、でも迷いなく。
◇ ◇ ◇
「条件がある」
男は言った。
「うちは表に出ない。
量も保証しない」
「構いません」
「それと」
男はエリを見据えた。
「圧が来たら、即切る」
胸がきゅっと締まる。
それでも、エリは頷いた。
「それでも、お願いします」
男は数秒黙り、
ふっと息を吐いた。
「……いいだろう」
セシルが静かに礼をする。
「感謝します」
「ただしだ」
男は低く続けた。
「最近、この街を嗅ぎ回ってる連中がいる。
あんたの名も、何度か聞いた」
空気が一段、冷える。
◇ ◇ ◇
帰り道。
「……一歩前進、だね」
エリが言う。
「ええ。
本命の一つ目です」
セシルは空を見上げた。
「ですが、同時に目をつけられました」
「……うん」
怖さはある。
でも、引き返す気はなかった。
「進もう。
止まらない」
「はい」
二人の歩みは、揃っていた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入店頭販売(数量制限)+14
収入店舗手伝いの取り分+20
合計+34
借金残高22,223 → 22,189リラ
セシルの一口メモ
安定とは、
与えられるものではなく、
選び取るものです。
一つずつ、確かな手で。




