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第7話 粉まみれの誓い

朝の鐘が鳴る前、街はまだ灰色だった。

 鳥の声さえ眠っている時間。

 私は一人で麦猫堂の鍵を開けた。


「よし……今日は、私ひとりでやってみる」


 セシルは昨日の夜から、納品の帳簿整理で王都の商人組合へ行っている。

 ハンナは仕入れに出ており、厨房には私しかいない。


 粉の袋を抱えて、作業台に置く。

 少しだけ心臓が早い。

 けれど、怖くはなかった。


 こね台に手を置く。

 粉の感触が、指先を通じて伝わってくる。

 この感触だけは、もう恐れなくなった。


 私は粉を量り、水を注ぎ、塩と酵母を混ぜる。

 湯気の向こうで、夜明けが滲む。

 白い粉の上を、最初の光がすべった。


 ――誰かに頼らずに焼ける日が、いつか来る。

 それが、今だとしたら。


 きっと、セシルは笑う。

 そして、またあの言葉を言うだろう。


 『事実申告です』って。


     ◇ ◇ ◇


 生地をこねるたびに、過去の記憶が少しずつ溶けていく。

 豪奢な食卓、銀の皿、絹の手袋。

 あの頃の私は、何も作れなかった。

 けれど今は、焼きたての香りを自分の手で生み出せる。


 窯の火を入れる。

 薪が弾ける音が、心臓の鼓動と重なる。

 膨らんでいく生地を見つめながら、思わず微笑んだ。


「……いい感じ」


 オーブンの前にしゃがみ、ガラス越しに見つめる。

 陽だまりパンがゆっくりと色づいていく。

 こんなにも美しい瞬間が、この世にあっただろうか。


     ◇ ◇ ◇


 店のドアが開いた。

 朝の風と一緒に、セシルの声が入ってくる。


「お嬢様、ただいま戻りました」


「おかえりなさい! ちょうど今、焼けたところなの!」


 私は笑顔で窯からトレーを取り出した。

 焦げなし。膨らみ完璧。

 まるで春の光みたいな、金色の焼き上がり。


 セシルが静かに近寄る。

 パンをひとつ手に取り、目を細めた。


「……素晴らしい。焼きむらゼロ、表面温度均一。職人の仕事です」


「ふふん、どう? 元お嬢様でもやればできるでしょ」


「事実申告です」


 私たちは顔を見合わせ、思わず笑った。

 その笑い声が、まだ冷たい朝の空気を少しだけ温めた。


     ◇ ◇ ◇


「そうだ、これ」

 セシルが懐から小さな袋を取り出した。

 中には新しい計量スプーンが入っていた。


「昨日、帳簿整理のついでに買いました。お嬢様専用です」


「えっ、専用?」


「ええ。前のを使うと粉の比率が誤差一グラムありました。

 完璧を目指すには、道具も正確であるべきです」


「……ありがとう。嬉しい」


 スプーンを手に取ると、金属が朝の光を弾いた。

 その輝きが、まるで新しい約束のように見えた。


「ねぇ、セシル」


「はい」


「私ね、もう借金返すためだけに焼いてるわけじゃないの」


「……承知しております」


「パンを焼いてると、なんだか未来を焼いてるみたいなの。

 焦げそうでも、立ち止まらずに……きっと膨らむって信じられる」


「お嬢様の信仰対象が、ついにパン生地に変わりましたか」


「うるさいっ」


 二人の笑い声が、粉まみれの厨房に響く。

 外では、朝の陽がゆっくりと昇っていく。


     ◇ ◇ ◇


 昼前、ハンナが戻ってきて、パンの焼き上がりを見て目を丸くした。


「なんだいこれ、完璧じゃないか! 形も味も申し分なし!」


「やりました!」


「これからはもう、安心して任せられるね。……エリ、今日はあんたに店を任せるよ」


「えっ、私が!?」


「午後の分、仕込みから会計まで全部。セシルも補助に回ってな」


 その瞬間、胸が跳ねた。

 不安よりも、期待のほうが大きかった。

 セシルが小さく微笑む。


「お嬢様、指揮権の移譲です」


「了解よ。じゃあ――今日のパンも、焦げゼロでいくわよ!」


「事実申告をお待ちしております」


     ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入日給(独り仕込み・営業)+18

収入販売分歩合+25

合計+43

借金残高24,884 → 24,841


セシルの一口メモ:

一人営業、完売。焦げもなし。

……予想外に順調なので、逆に少し不安です。

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