第77話 切られていく糸
朝の仕込みが終わる頃、
麦猫堂の裏口が静かに叩かれた。
「……はい?」
扉を開けたエリは、そこに立つ人物を見て目を瞬かせた。
「粉屋の……ロットさん?」
いつもなら陽気に笑う中年の商人は、今日は帽子のつばを深く引き下げ、視線を合わせようとしなかった。
「悪いな、エリ嬢ちゃん。
今日は……顔だけ出しに来た」
「顔だけ、ですか?」
エリの胸に、小さな嫌な予感が広がる。
◇ ◇ ◇
店内に入るなり、ロットは深く息をついた。
「今後しばらく、小麦粉の納品を止めたい」
言葉は短く、はっきりしていた。
「え……どうして?」
「理由は言えねえ。
だが、こっちも商売なんだ」
ハンナが腕を組む。
「今さら、あんたがそんなこと言う人じゃないだろ」
「分かってる。
分かってるから、直接来た」
ロットは、悔しそうに歯を食いしばった。
「上から話が来た。
あの店とは、距離を取れってな」
エリの喉が、ひくりと鳴った。
「上……?」
「名前は出せねえ。
だが、商業区の連中だ。
今は逆らえねえ」
◇ ◇ ◇
店の空気が、重く沈む。
セシルが一歩前に出た。
「圧力、という理解でよろしいですね」
ロットは、ゆっくり頷いた。
「……そうだ」
「他にも、来ていますか」
「パンに使う蜂蜜屋、塩商、卵問屋……
何件か、同じ話を聞いた」
エリの指先が冷たくなる。
(一つじゃない……
全部、切りに来てる)
「すまねえ」
ロットは深く頭を下げた。
「世話になった。
だが……今は助けられねえ」
「……いえ」
エリは、ゆっくり首を振った。
「来てくれて、ありがとうございます」
ロットは一瞬だけ驚いた顔をし、
その後、何も言わずに店を出て行った。
◇ ◇ ◇
扉が閉まったあと。
「……本気だね」
ハンナが低く言った。
「ええ。
これは偶然でも、噂の延長でもありません」
セシルの声は冷静だった。
「供給を断ち、質を落とし、
信用を削る」
エリは、ぎゅっとエプロンを握る。
「パンが焼けなくなったら……
それで終わり、ってこと?」
「終わりにはさせません」
即答だった。
「代替の仕入れ先を探します。
量は減るでしょうが、止まりはしない」
「でも……」
「エリ」
セシルは、真っ直ぐに言った。
「彼らは、恐怖で店を潰そうとしている。
ですが、恐怖は必ず痕跡を残します」
「痕跡?」
「誰が、どこで、
何を恐れているのか」
◇ ◇ ◇
夕方。
麦猫堂の棚には、
いつもより少ない数のパンが並んだ。
それでも、買いに来る客はいた。
「数、少ないね」
「今日はこれだけなんです」
「……それでも、いい」
そう言って買っていく人の背中を見て、
エリは胸の奥が少しだけ温かくなる。
(全部、切れてない)
◇ ◇ ◇
閉店後。
「セシル……
私、怖い」
正直な声だった。
「当然です」
「でも……
逃げたくない」
セシルは、少しだけ目を細めた。
「では、耐えましょう。
そして、調べます」
「調べる?」
「ええ。
誰が糸を引いているのかを」
その声は、静かだったが、
揺るぎはなかった。
◇ ◇ ◇
夜。
商業区の奥。
「粉屋が一軒、止めた」
「蜂蜜もだ」
「順調だな」
影の一人が笑う。
「だが……
まだ、潰れていない」
「しぶとい店だ」
「なら、次は一段強くいく」
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入店頭販売(供給減)+10
収入店舗手伝いの取り分+20
合計+30
借金残高22,285 → 22,255リラ
セシルの一口メモ
糸を切られる時、
どこから切られたかを見るべきです。
恐怖は武器ですが、
使った者の指紋を必ず残します。




