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第76話 揺さぶりは、静かに広がる

朝の麦猫堂は、いつもより遅く扉が開いた。


「……開けるよ」


ハンナの声に、エリは小さく頷いた。


昨日の衛生監査以来、

通りを歩く人の視線が、どこか様子見に変わっている。


(気のせい……じゃないよね)


エリは焼き台に火を入れながら、胸の奥を押さえた。


   ◇ ◇ ◇


午前中。


客は、三人。


常連だった老夫婦も、今日は通り過ぎていった。


「……減ったね」


エリの呟きに、ハンナは肩をすくめる。


「こういう日はあるさ。

 問題は、続くかどうかだ」


セシルは、店の外を静かに観察していた。


「……誰か、店の前で立ち止まる回数が増えています」


「見張り?」


「いえ。確認です。

 人は噂を信じる前に、自分の目で確かめたがる」


エリは、ぎゅっとエプロンの端を握った。


   ◇ ◇ ◇


昼過ぎ。


クレアル邸からの納品は、滞りなく終えた。


アンナはいつもと変わらぬ丁寧さで受け取り、

小さく声を落とした。


「……最近、街が少し騒がしいですね」


「はい……」


「ご安心を。

 奥様は、変わらず信頼しておられます」


その一言に、エリは救われたような気がした。


   ◇ ◇ ◇


だが、店に戻る途中。


路地の角で、聞こえてきた声が足を止めさせた。


「例のパン屋、今日は客が少ないらしい」


「監査が入ったって話だ」


「やっぱりな。

 身の丈に合わないことをすると、こうなる」


エリの胸が、きゅっと締めつけられる。


(知らない人に、勝手に……)


セシルが、さりげなく前に立った。


「行きましょう」


「……うん」


   ◇ ◇ ◇


夕方。


麦猫堂の扉が、また開いた。


入ってきたのは、見覚えのある少年だった。


「……昨日も来た?」


「うん」


少年は、少し照れたように言う。


「母ちゃんが言ってた。

 噂より、あんたのパンを信じろって」


エリは、思わず笑った。


「ありがとう。

 今日は焼きたてだよ」


パンを受け取った少年は、嬉しそうに頷いて帰っていった。


(全部じゃない……

 全部が敵になるわけじゃない)


   ◇ ◇ ◇


閉店後。


帳簿を前に、エリは小さく息を吐いた。


「……数字、落ちてるね」


「ええ」

セシルは冷静に答える。

「ですが、想定内です」


「想定内?」


「はい。

 彼らは急落を狙っています。

 ですが、まだ致命傷ではない」


エリは顔を上げた。


「じゃあ……どうするの?」


「耐えます。

 同時に、手を打ちます」


「手?」


セシルは、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。


「私のほうで、

 幾つか確認しておくことがあります」


「……危ないこと?」


「危険は、既にあります」


その言葉は、淡々としていた。


「ですが、

 エリが守ろうとしている場所を、

 私は見過ごしません」


エリの胸に、静かな熱が灯る。


「……ありがとう、セシル」


   ◇ ◇ ◇


その夜。


商業区の一角。


「パン屋は、まだ潰れていない」


「だが、確実に削れている」


「次は?」


「次は……

 取引先だ」


影は、ゆっくりと笑った。


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入店頭販売(減少)+12

収入店舗手伝いの取り分+20

合計+32

借金残高22,317 → 22,285リラ

セシルの一口メモ


噂は刃になり得ますが、

信頼は盾にもなります。

削られる時こそ、

守るべきものがはっきりするのです。

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