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第75話 踏み込まれる境界線

朝の麦猫堂は、張りつめた空気に包まれていた。


焼き台の火は入っている。

生地もいつも通りだ。

けれど、扉の向こうがやけに静かだった。


「……今日も、少ないね」


エリの声は、無意識に小さくなっていた。


「噂は、すぐには消えないさ」

ハンナが淡々と言う。

「でも、焼く手は止めないよ」


エリは頷き、パン生地に向き直った。


   ◇ ◇ ◇


開店からしばらくして。


扉が、普段より強く叩かれた。


「失礼する」


入ってきたのは、二人組の男だった。

地味な服装だが、腰に下げた札が目を引く。


「商業区の衛生監査だ」


空気が、一瞬で凍る。


「衛生……監査?」

ハンナが眉を上げる。


「最近、通報があってな。

 無許可の製造、管理不十分の可能性があると」


エリの胸が強く脈打つ。


(通報……誰が……)


セシルが一歩前に出た。


「こちらは正式な営業許可を取得しております。

 必要書類も揃っています」


「確認させてもらう」


男たちは、遠慮なく厨房へ踏み込んだ。


   ◇ ◇ ◇


棚。

焼き台。

水場。


視線が、粗探しをするように動く。


「……清掃は行き届いているな」


一人が低く呟く。


「だが、この保管方法はどうだ?」


「基準内です」

セシルが即座に答える。


「記録もあります」


男は舌打ちした。


「随分、用意がいい」


その言葉に、悪意が滲んでいた。


   ◇ ◇ ◇


調査は一刻ほど続いた。


結果として、明確な違反は見つからなかった。


「……今回は警告のみだ」


男は札をしまい、言い捨てる。


「だが、噂がある以上、

 今後も目を光らせてもらう」


扉が閉まる。


残された厨房に、重たい沈黙が落ちた。


   ◇ ◇ ◇


「……やられたね」

ハンナが吐き捨てるように言う。

「完全に、狙い撃ちだ」


「はい」

セシルの声は低かった。

「牽制です。

 店を萎縮させるための」


エリは、ぎゅっとエプロンを握る。


「……私のせい、だよね」


「違います」

セシルが即座に否定した。

「狙われたのは、立ち上がったからです」


「でも……」


「エリ」

セシルは、静かだが強い声で続ける。

「悪意は、理由を選びません。

 耐えられない者に、刃を向けるだけです」


   ◇ ◇ ◇


その日の午後。


客は、さらに減った。


それでも、一人の少年が店に入ってきた。


「……パン、ある?」


「あるよ」

エリは、少しだけ微笑んだ。


「母ちゃんが、

 ここは大丈夫だって言ってた」


その言葉が、胸に沁みた。


(ちゃんと……見てくれてる人もいる)


   ◇ ◇ ◇


閉店後。


セシルが静かに告げた。


「今日の件で、はっきりしました」


「何が……?」


「彼らは、噂だけで終わらせるつもりはありません。

 実際に、居場所を削りに来ています」


エリは、ゆっくりと息を吐いた。


「……でも、私」


顔を上げる。


「やめない。

 ここを、渡さない」


その瞳には、揺れはなかった。


セシルは、わずかに目を細めた。


「では、守りを固めましょう。

 私も、遠慮はしません」


影は、もう境界線を越えた。

だからこそ、こちらも引かない。


   ◇ ◇ ◇


同じ夜。


路地裏。


「監査は失敗だ」


「想定内だ」


低い声が応じる。


「だが、揺れは生じた」


「……なら次は?」


「次は、

 選ばせる」


闇が、静かに笑った。


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入店頭販売(監査の影響)+10

収入店舗手伝いの取り分+20

合計+30

借金残高22,347 → 22,317リラ

セシルの一口メモ


境界を踏み越えられたなら、

守る覚悟も一段、上げねばなりません。

逃げぬと決めた場所こそ、

守る価値のある場所です。

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