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第74話 噂が形になる日

翌朝の麦猫堂は、いつもより静かだった。


客足が、明らかに少ない。


「……あれ?」


開店してから一刻ほど経つのに、

いつもの常連の姿が見えない。


「どうしたんだろ……」


エリが不安そうに呟くと、ハンナが腕を組んだ。


「噂だね」


「噂……」


「朝、市場で聞いたよ。

 あのパン屋は、貴族のお遊びだってさ」


エリの胸が、ひゅっと縮む。


「そんな……」


「元貴族の娘が道楽で店をやってる。

 うまくいったら利用して、飽きたら捨てる。

 ……そういう話が流れてる」


セシルの表情が、わずかに硬くなった。


「悪質ですね。

 意図的に信頼を削る内容です」


   ◇ ◇ ◇


昼前。


ようやく一人、客が入ってきた。


「……あの」


若い女性だった。

手には買い物籠。


「陽だまりパン、ありますか」


「はい。あります」


エリがパンを差し出すと、

女性は少し迷うように視線を落とした。


「……変なこと聞いていいですか」


「はい」


「ここって……

 すぐ閉めたり、しませんよね?」


その言葉に、エリは一瞬言葉を失った。


(もう、ここまで……)


だが、エリは深く息を吸い、微笑んだ。


「閉めません。

 ここは、私たちの店です」


女性はしばらくエリの顔を見てから、

小さく頷いた。


「……それなら、ひとつください」


「ありがとうございます」


パンを受け取った女性は、

少し安心したように店を出ていった。


   ◇ ◇ ◇


午後。


商人連合からの使いが現れた。


「エリシア様。

 監督官アークより伝言です」


「……はい」


「街で出回っている噂について、

 連合としても把握しています」


セシルが一歩前に出る。


「何か、処置は」


「現在、調査中とのことです。

 ただし……」


使いは一瞬言葉を切った。


「連合としては、

 無用な摩擦を避けるため、

 しばらく動きを控えることを勧める、と」


「控える……?」


エリの声が、わずかに震えた。


「出張販売や、新規取引の話は、

 一時的に見合わせるのが望ましいと」


それは、

進むな、という意味だった。


   ◇ ◇ ◇


使いが去ったあと、

厨房に沈黙が落ちる。


「……足を止めろ、ってことだね」


ハンナが低く言う。


「噂が広がる中で動けば、

 問題を大きくすると判断したのでしょう」


セシルは冷静だった。


エリは、ぎゅっと拳を握る。


「でも……

 私、何も悪いことしてない」


「ええ」


「パンを焼いて、

 ちゃんと届けて、

 喜んでもらっただけなのに」


その声には、悔しさが滲んでいた。


   ◇ ◇ ◇


夕方。


セシルが、静かに言った。


「エリ。

 ここで一度、選択が必要です」


「……何を?」


「噂が沈むまで、静かに待つか。

 それとも、

 正面から信頼を積み重ね続けるか」


「どっちが……正しいの?」


「正しさではありません」


セシルは、エリを真っ直ぐ見た。


「どちらが、

 あなたの道か、です」


エリは、しばらく考えた。


少ない客。

広がる噂。

足を止めろという忠告。


そして、

それでもパンを買ってくれた人の顔。


「……止まりたくない」


小さな声だったが、確かだった。


「怖いけど……

 信じてくれる人がいる限り、

 私は、焼くのをやめたくない」


セシルは、静かに頷いた。


「では、その覚悟を守りましょう」


   ◇ ◇ ◇


同じ夜。


路地裏。


「商人連合が動いた」


影の一人が報告する。


「だが、完全には止められないようだ」


「構わん」


低い声が答えた。


「なら次は、

 本人に直接、迷いを与える」


「……店か」


「ええ。

 彼女の居場所を、揺らす」


闇の中で、

不穏な気配が、はっきりと形を持った。


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入店頭販売(客足減)+15

収入店舗手伝いの取り分+20

合計+35

借金残高22,382 → 22,347リラ

セシルの一口メモ


噂が刃になる時、

立ち止まる者と、踏み出す者の差が生まれます。

エリは、後者です。

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