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第73話 影が牙を剥く

朝の麦猫堂は、いつもと変わらない香りに満ちていた。

焼き上がったパンの甘さと、小麦の温もり。


けれど、エリの胸の奥には、昨日から続く張りつめた感覚が残っている。


(何も起きてないのに……落ち着かない)


生地を成形しながら、無意識に店の入口へ視線を向けてしまう。


「エリ、集中だよ」


ハンナの声に、はっとして手元へ戻る。


「ごめんなさい」


「大丈夫さ。

 ただし、ぼんやりしたまま刃物は触るんじゃないよ」


「はい……」


   ◇ ◇ ◇


午前の営業が落ち着き始めた頃だった。


カラン、と控えめに鈴が鳴る。


「いらっしゃいませ」


入ってきたのは、見慣れない男だった。

街人の服装だが、どこか整いすぎている。


「……陽だまりパンを一つ」


低く、抑えた声。


「はい」


エリはパンを包み、差し出す。


男は受け取りながら、視線を店内に巡らせた。

棚、厨房、ハンナ、そしてエリ。


「ずいぶん、繁盛しているようだ」


「ありがとうございます」


「……一人で切り盛りしているのか?」


エリの指が、わずかに止まった。


「いいえ。皆でやっています」


男はふっと口元を歪めた。


「そうか」


銀貨を置き、男は店を出ていった。


その背中を見送った瞬間、

エリの背筋に冷たいものが走る。


(今の人……)


   ◇ ◇ ◇


昼過ぎ。


「エリ」


セシルが低い声で呼んだ。


「今の客ですが……

 入口に立った位置、視線の動かし方、質問の内容。

 いずれも、様子見です」


「やっぱり……影の人?」


「高い確率で」


ハンナが腕を組む。


「つまり、探りを入れてきたってことかい」


「ええ。

 店の体制、エリの立場、周囲の警戒を」


エリはぎゅっとエプロンの端を握った。


「もう……始まってるんだね」


「はい。

 次は、より直接的な動きになるでしょう」


   ◇ ◇ ◇


その日の夕方。


店の外が、妙に騒がしかった。


「おい、聞いたか?

 あのパン屋、元貴族の娘がいるって」


「へえ……だから商人連合が目をつけてるのか」


ひそひそ声が、はっきりと耳に入る。


(……わざとだ)


エリは確信した。


噂が、流されている。

しかも、悪意を含んだ形で。


   ◇ ◇ ◇


閉店後。


戸締まりを終えた厨房で、セシルが口を開く。


「エリ。

 影は、静観の段階を終えました」


「……次は?」


「圧をかけてきます。

 噂、取引、立場。

 あなたが不安定になる方向へ」


ハンナが低く唸る。


「つまり、心を折りにくるってことだね」


「ええ」


エリは、少しだけ考えてから顔を上げた。


「……でも、逃げない」


セシルが静かに頷く。


「それでこそです」


「怖いけど……

 ここは、私の場所だから」


その言葉は、震えていなかった。


   ◇ ◇ ◇


同じ夜。


街の裏路地。


「確認した。

 パン屋は想像以上に守りが固い」


影の一人が低く報告する。


「だが、噂は効いている。

 女は揺れているはずだ」


別の影が答える。


「なら次だ。

 仕事と立場を同時に揺さぶれ」


「了解した」


闇の中で、視線が交差した。


「――エリシア・フォン・リースフェルト。

 その名が、再び表に出る」


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入店頭販売(通常)+22

収入店舗手伝いの取り分+20

合計+42

借金残高22,424 → 22,382リラ

セシルの一口メモ


敵が動いたということは、守るべきものが明確になったということです。

迷いが減れば、覚悟は研ぎ澄まされます。

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