第72話 影の手触り
セシルが影を追いきれなかった、その日の夕方。
麦猫堂の店内には、昼間の緊張が嘘のような穏やかな空気が戻っていた。
焼き上がったパンの香りが漂い、
ハンナはいつも通り、手際よく棚を整えている。
「ほら、エリ。今日はここまでだよ。
あんた、ずっと気張りっぱなしだったろ」
「……うん。ありがとう」
エリはエプロンを外しながら、肩の力を抜いた。
体は疲れているはずなのに、頭だけが冴えている。
(昼間の視線……確かに、私を見てた)
偶然ではない。
そう分かっているからこそ、胸の奥がざわつく。
◇ ◇ ◇
閉店後。
表の戸締まりを終え、裏口から風が入り込む。
「エリ。少し話を」
セシルの声は低く、静かだった。
「うん」
二人は厨房の片隅、灯りの落ちた場所へ移動する。
「昼間の人物ですが……
動き方から見て、単独行動ではありません」
エリの喉が小さく鳴った。
「仲間が、いるってこと?」
「ええ。
見張り役と、接触役を分けている可能性が高い」
「……そんな」
エリは思わず腕を抱いた。
「でも、何のために……
私、もう貴族でも何でもないのに」
「それでも、リースフェルト家の名は残っています」
セシルは淡々と続ける。
「没落した名は、好奇と利用の対象になりやすい。
特に今のエリは、街で目立ち始めています」
(パンを焼いてるだけなのに……)
心の中で呟いた言葉は、声にならなかった。
◇ ◇ ◇
「エリ」
セシルは、いつもより少しだけ距離を詰めて言った。
「今後しばらく、単独行動は控えてください」
「……分かった」
「外出時は必ず声をかけること。
万一、不審な人物に声をかけられても、応じない」
「うん」
ひとつひとつ頷きながら、エリは自分の心を確かめていた。
(怖い。でも……)
「ねえ、セシル」
「はい」
「私……逃げたほうがいいのかな」
その問いは、ずっと胸の奥にあったものだった。
セシルは、即座には答えなかった。
数秒の沈黙のあと、はっきりと言う。
「いいえ」
「……どうして?」
「逃げれば、相手は追います。
ですが、ここで立ち続ければ、相手は動き方を選ばねばならない」
エリは目を見開いた。
「それに」
セシルの声が、わずかに柔らぐ。
「エリは、ここで築いたものを捨てる理由がありません」
胸の奥が、きゅっと締まった。
(麦猫堂。
ハンナさん。
焼き上がるパン。
街の人たちの顔)
「……うん。
私、ここを離れたくない」
「ならば、それで十分です」
◇ ◇ ◇
その夜。
部屋に戻ったエリは、窓辺に立って外を見た。
暗い通り。
動く影は、もう見えない。
(でも、確かにそこにいた)
布団に入っても、すぐには眠れなかった。
(怖い。
それでも……私は、私の場所を守りたい)
その決意は、まだ小さい。
けれど、確かに胸の奥に根を張り始めていた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入店頭販売(通常)+18
収入店舗手伝いの取り分+20
合計+38
借金残高22,462 → 22,424リラ
セシルの一口メモ
守ると決めた場所がある限り、人は強くなれます。
恐れの中で立ち続ける覚悟こそ、本当の盾です。




