表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/132

第72話 影の手触り

セシルが影を追いきれなかった、その日の夕方。

麦猫堂の店内には、昼間の緊張が嘘のような穏やかな空気が戻っていた。


焼き上がったパンの香りが漂い、

ハンナはいつも通り、手際よく棚を整えている。


「ほら、エリ。今日はここまでだよ。

 あんた、ずっと気張りっぱなしだったろ」


「……うん。ありがとう」


エリはエプロンを外しながら、肩の力を抜いた。

体は疲れているはずなのに、頭だけが冴えている。


(昼間の視線……確かに、私を見てた)


偶然ではない。

そう分かっているからこそ、胸の奥がざわつく。


   ◇ ◇ ◇


閉店後。

表の戸締まりを終え、裏口から風が入り込む。


「エリ。少し話を」


セシルの声は低く、静かだった。


「うん」


二人は厨房の片隅、灯りの落ちた場所へ移動する。


「昼間の人物ですが……

 動き方から見て、単独行動ではありません」


エリの喉が小さく鳴った。


「仲間が、いるってこと?」


「ええ。

 見張り役と、接触役を分けている可能性が高い」


「……そんな」


エリは思わず腕を抱いた。


「でも、何のために……

 私、もう貴族でも何でもないのに」


「それでも、リースフェルト家の名は残っています」


セシルは淡々と続ける。


「没落した名は、好奇と利用の対象になりやすい。

 特に今のエリは、街で目立ち始めています」


(パンを焼いてるだけなのに……)


心の中で呟いた言葉は、声にならなかった。


   ◇ ◇ ◇


「エリ」


セシルは、いつもより少しだけ距離を詰めて言った。


「今後しばらく、単独行動は控えてください」


「……分かった」


「外出時は必ず声をかけること。

 万一、不審な人物に声をかけられても、応じない」


「うん」


ひとつひとつ頷きながら、エリは自分の心を確かめていた。


(怖い。でも……)


「ねえ、セシル」


「はい」


「私……逃げたほうがいいのかな」


その問いは、ずっと胸の奥にあったものだった。


セシルは、即座には答えなかった。

数秒の沈黙のあと、はっきりと言う。


「いいえ」


「……どうして?」


「逃げれば、相手は追います。

 ですが、ここで立ち続ければ、相手は動き方を選ばねばならない」


エリは目を見開いた。


「それに」


セシルの声が、わずかに柔らぐ。


「エリは、ここで築いたものを捨てる理由がありません」


胸の奥が、きゅっと締まった。


(麦猫堂。

 ハンナさん。

 焼き上がるパン。

 街の人たちの顔)


「……うん。

 私、ここを離れたくない」


「ならば、それで十分です」


   ◇ ◇ ◇


その夜。

部屋に戻ったエリは、窓辺に立って外を見た。


暗い通り。

動く影は、もう見えない。


(でも、確かにそこにいた)


布団に入っても、すぐには眠れなかった。


(怖い。

 それでも……私は、私の場所を守りたい)


その決意は、まだ小さい。

けれど、確かに胸の奥に根を張り始めていた。


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入店頭販売(通常)+18

収入店舗手伝いの取り分+20

合計+38

借金残高22,462 → 22,424リラ

セシルの一口メモ


守ると決めた場所がある限り、人は強くなれます。

恐れの中で立ち続ける覚悟こそ、本当の盾です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ