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第70話 揺れる核心

夜の麦猫堂は、昼の喧騒が嘘のように静かだった。

焼き台の余熱だけがほんのり残り、厨房には小麦の香りが漂っている。


エリは帳簿を開いたまま、手を止めていた。

心がざわついて数字が頭へ入ってこない。


(あの影……私の名前を呼んだ。どうして?

 どうして、ここにいるって分かったの?)


扉の近くで片付けをしていたセシルが、エリの表情に気づく。


「集中できていませんね」


「……うん。ごめん」


「謝る必要はありません。考えることが増えただけです」


静かな声は、責めるでも慰めるでもない。

ただ隣に立つための温度を帯びていた。


エリは深く息を吸い、勇気を振り絞って問いかけた。


「セシル……

 やっぱり、私を探してる誰かって……リースフェルト家と関係があるの?」


セシルの手が一瞬だけ止まった。

しかしすぐに、いつもの落ち着きを取り戻して言う。


「可能性は否定できません。ただ……」


「ただ……?」


「狙いが家の意向によるものなのか、

 家に関わる別の思惑なのかは、まだ判断できません」


言葉は冷静だが、奥に硬いものがある。

セシルの警戒心が、いつもより鋭い。


「でも……ガレドさんの話だと、動いてる人が複数いるんでしょ?

 そんな大掛かりなこと、普通じゃ……」


「ええ。普通ではありません」


セシルは完全にエリの方へ向き直った。


「エリ、あなたは一つ勘違いしています」


「え?」


「あなたはただの元侯爵令嬢ではありません。

 優れた人脈と評判、そして今は麦猫堂という確かな居場所を得ている。

 街で注目を浴びているという事実は、誰かにとって利用価値になり得る」


胸がぎゅっと締め付けられる。


(私なんて、ただの……)


「エリ。あなたはなんかではありません」


ハッと顔を上げると、セシルの瞳が真っ直ぐに射抜いてくる。


「あなたを利用しようとする者もいれば、守るべきだと思う者もいる。

 立場が変われば、見える価値も変わるのです」


「……でも、怖いよ。

 誰かが私を探してるって思うだけで……胸がざわってして……」


「怖がっていい。

 ただし――恐怖で判断を誤らないことが重要です」


セシルは椅子を引き、エリの隣に腰を下ろした。


「影の目的が何であれ、ここはあなたの居場所です。

 あなたが失った場所ではなく、あなたが選んだ場所だ」


エリは思わず胸に手を当てた。

確かに、この店にいると温かくなる。

パンの香りと、仲間の声と、セシルの隣で働く日々。


「……守れるかな、私」


「守るために、あなたはここにいるのではありません」


セシルは静かに、しかし揺るぎなく言った。


「守るのは私の役目です。

 あなたは、あなたであればいい」


エリの目にじわりと熱がにじむ。


「……ありがとう。

 でも私も、逃げないって決めたんだ。

 もう、自分から背を向けたりしない」


「ええ。それでこそエリです」


ふっと空気が和らぎ、セシルも小さく微笑んだ。


そのとき、扉の外で砂利を踏む微かな音がした。

二人は同時に顔を上げる。


「……今の音」


「気にしなくていい音ではありませんね」


セシルの目が鋭く光り、静かに立ち上がった。


エリの胸は再びざわついたが、

その隣に立つ背中が、不思議と心を支えてくれた。


(影が何者でも……私は逃げない)


小さく、強く、エリは拳を握った。


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入店頭販売(通常)+20

収入店舗手伝いの取り分+20

合計+40

借金残高22,540 → 22,500リラ

セシルの一口メモ


恐れを抱くのは悪いことではありません。

恐れを認め、それでも前へ進む――

その意志こそ、あなたの力になります。

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