第69話 街のざわめきと、本当に必要な言葉
昼下がり。
麦猫堂の店先には、いつになく落ち着きのないざわめきが流れていた。
「ねえ、あの娘、貴族だったって本当?」
「なんでも、婚約破棄されて街に出たんだってさ」
「でもパン屋で働いて、クレアル家にも納品してるんだろ?」
「すごいよねえ……私は応援したいけど」
そんな声が、風に乗って耳へ入り込んでくる。
(……また噂。
どうして、こうなっちゃうんだろう)
カウンター越しにお客へパンを渡しながら、
エリは胸の奥がざわつくのを抑えきれなかった。
「エリ、休憩にしましょう」
セシルが穏やかに声をかける。
「……うん」
店の裏手に出ると、風がひんやりと頬をなでた。
エリは木箱に腰を下ろし、深く息を吐く。
(私……何を怖がってるんだろう)
いや、分かっていた。
広がる噂。
自分を値踏みするような視線。
そして、どこかから近づいてくる影。
気丈に振る舞っていても、
胸の奥では確かに怯えていた。
「……私なんて、ただのパン屋の見習いなのに」
思わず小さく漏れた弱音。
それを聞きとめ、セシルがそっと隣に立つ。
「エリ。あなたはなんてことはありません」
「……セシル?」
「あなたがどう噂されようと、人がどう言おうと関係ない。
エリが積み上げてきたものは、嘘も飾りもない本物です」
その声は、静かだが芯が通っていた。
「でも……私、強くないよ?
噂ひとつで揺れちゃうし、不安になって……」
「揺れるのは弱さではありません」
セシルは即座に断言した。
「揺れても、その場から逃げずに立っている。それが強さです」
エリは言葉を失った。
胸の奥へ、すとんと何かが落ちていく感覚。
拒むように縮こまっていた心が、少しだけ伸びをした。
「……セシルは、そう思ってくれるの?」
「思っています。ずっと」
セシルの目は、まっすぐで、揺れていなかった。
息が詰まりそうで、でも温かかった。
その時、通りの向こうで小さなざわめきが起きた。
「誰かが……こっちを見ている?」
エリが目を細める。
雑多な人混みの中に、ふと視線の気配だけが残る。
だがその姿は一瞬で消えた。
(また……影?)
胸が再びざわつく。
だが今はさっきほど押しつぶされそうではなかった。
隣に、確かな存在がいるから。
「戻りましょう、エリ。休憩が終わります」
「うん……ありがとう、セシル」
エリは深呼吸をして立ち上がった。
今日、噂は消えない。
影の正体もまだ見えない。
それでも――
(私は、止まらない)
そう思えるだけの言葉を、セシルからもらっていた。
二人は店へ戻っていった。
昼の風は少し強かったが、エリの歩みは昨日よりずっと軽かった。
本日の収支記録
項目内容金額
収入店頭販売(通常)+22
収入店舗手伝いの取り分+20
合計+42
借金残高:22,540 → 22,498リラ
セシルの一口メモ
揺らぐ心は、守るべきものがある証です。
逃げずに立つあなたを、私は誇りに思っています。




