第6話 黒衣の執事、夜の呼び声
夜の街は、昼とは別の顔をしていた。
石畳の上に霧が流れ、灯りのひとつひとつが息をしているように瞬く。
パンの香りが消えたあとには、どこか寂しい金属の匂いが残る。
「セシル……」
名を呼んでも返事はない。
彼はあの紋章の男と共に出て行ったきり、戻ってこなかった。
麦猫堂の裏口の鍵を閉めると、冷たい夜風が頬を撫でた。
空には雲が流れ、月はまだ半分も満ちていない。
――没落したはずの家の紋章。
それを掲げる者がいるなんて、考えもしなかった。
そして、その名を呼ばれても、セシルは一言も否定しなかった。
◇ ◇ ◇
「……嬢ちゃん、こんな時間に外を歩くのはやめときな」
角を曲がったところで、見張りの老人に声をかけられた。
焚き火の光が、彼の顔に影をつくる。
パン屋の向かいの警備小屋。
いつも通りかかるたびに声をかけてくれる、元兵士のベン老人だ。
「夜はな、昼より人が正直になる。いいことばかりじゃねぇ」
「……セシルを探してるの。行く場所がわからなくて」
「セシル? 黒いコートの兄ちゃんか? ……さっき、城下の北橋の方へ歩いていったよ」
「北橋……?」
「ああ。あそこは、王都から没落貴族が帰らずに立ち寄る場所さ。
何か、昔話でもしてるのかもな」
ベンの言葉が胸に刺さった。
昔話。
セシルにも、語らない過去がある。
私は頷き、礼を言って歩き出す。
◇ ◇ ◇
北橋は、霧の中に沈んでいた。
橋脚の下を流れる水が、鈍い銀色に光る。
その欄干の上で、二つの影が向かい合っていた。
一人はセシル。
もう一人は、あの紋章の男。
声は低く、風に溶けるようだったが、耳を澄ませば聞こえる。
「――だからこそ、あなたが必要なのです。セシル・クレイン。
リースフェルト家はまだ終わっていない。お嬢様を、王都にお戻しせねばならない」
「……それが、今さら誰の命令だ」
「上からのご命令です。……お嬢様はあの件の継承者。放ってはおけません」
「あの件……」
セシルの手が、わずかに震えた。
男は続ける。
「あなたがあの夜、すべてを背負ったと聞いています。
ですが、あれは――あなた一人で償うものではない」
沈黙。
霧の向こうから鐘の音が遠く響いた。
セシルの声が、それを断ち切る。
「……俺の主は、もう令嬢ではなく、労働者です。
過去の家名も、称号も、焼き捨てました。――それが彼女の選んだ道だ」
「ですが――!」
「お帰りください。……二度と、この街へは来ないでいただきたい」
風が吹いた。
その刹那、霧の中に金のボタンがひとつ転がり落ちた。
外套の男が唇を噛み、踵を返す。
「あなたの忠誠は、いずれ彼女を苦しめる……」
それだけを残して、闇の中へ消えていった。
◇ ◇ ◇
セシルは橋の上に立ち尽くしていた。
夜の風が、外套の裾を揺らす。
遠くに、パン屋の灯りが見える。
あの店こそ、今の主が働く場所――彼が守るべき、ささやかな世界だった。
「……お嬢様。あなたは、もう戻らなくていい」
彼の呟きは、風に溶けて消えた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
まだ陽も昇らぬうちに、私は店に立っていた。
セシルがいない厨房は、まるで歯車が欠けたみたいに静かだ。
粉を量る音がやけに大きい。
「……帰ってくるよね」
声に出した瞬間、涙がひとつ落ちた。
粉の上に落ちて、白く消える。
そのとき、ドアの鈴が鳴った。
「おはようございます。お嬢様」
いつもの声だった。
振り返ると、セシルが立っていた。
少しだけ、瞳の奥が疲れている。
「セシル……!」
「申し訳ありません。少々、過去の清算をしておりました」
「……過去の、清算?」
「はい。焦げついたものは、放っておくと煙になりますから」
「あなたの事実申告、ほんとに便利ね」
「生きるための装備です」
涙がこぼれそうになって、笑った。
セシルも、ほんのわずかに笑った。
――そして、いつものように言う。
「お嬢様。……焼きますか?」
「ええ。今日も、陽だまりパンを」
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入麦猫堂・通常勤務+15
収入販売分歩合+20
合計+35
借金残高24,919 → 24,884
セシルの一口メモ:
夜更け、呼び出しを受けて城下の北橋へ。
少し冷えましたが、情報交換は滞りなく。
お嬢様は「今の主」という言葉に反応されたようですが――
パンは焼けております、問題ありません。




