第65話 影を払う声、支える手
朝の光が高く昇るにつれて、麦猫堂の店内には常連客の声が少しずつ広がり始めた。
エリはその中で、昨日アンナから受け取った手紙の内容を何度も思い返していた。
(名前が……軽率に扱われてる。
見えないところで、人が動いている……)
胸の奥に冷たさが残っている。
「エリ。今日の生地、悪くないですね」
セシルが声をかけてくる。
「本当……? なら、良かった……」
返事はできているのに、心はまだ重かった。
セシルはしばらくエリを見て、ほんの少しだけ視線を柔らかくした。
「エリ。昨夜から、ずっと気持ちが沈んでいますね」
「……うん。ごめんね、隠せてなかったよね」
「隠す必要はありません。
ただ、あなたが抱え込みすぎているのが気になるだけです」
(抱え込み……)
言われてみれば、その通りだった。
名を無闇に噂されているという事実。
フードの影が自分を狙っていたという不安。
そして、どこかで自分のせいだと思ってしまう弱さ。
(でも……どうしたらいいのか分からない)
エリは、捏ね終わった生地に手を置いたまま俯いた。
「……怖いの。
何が迫ってるのか分からないから。
どうしようもできないことが、また起きそうで……」
自分で言って、胸の奥がきゅっと縮んだ。
すると――
「エリ」
セシルの声が、驚くほど近かった。
顔を上げると、セシルが静かに手を伸ばし、
エリの手の上にそっと重ねた。
「恐いと感じることは、弱さではありません。
ただ……その感情に飲み込まれないようにしてほしいのです」
その手の温かさが、今にも折れそうな心を支えてくれるようだった。
「エリは、一人で街に出て、働き、数字を掴むまで成長した。
影が何をしようと、あなたは簡単には倒れません」
「……セシル」
「それに」
セシルは手を離さぬまま、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「影が迫ろうと、私が払います。
あなたが怯える必要のある影など、ひとつもありません」
胸に温かい波が広がった。
(……この人は、本当に、ずっと支えてくれてるんだ)
エリは目を伏せ、少しだけ息を吸い込む。
「……ありがとう、セシル。
私……前みたいに逃げたりしない。
怖くても、ちゃんとここに立っていたい」
セシルは迷いなく頷いた。
「ええ。それでこそ、エリです」
その時、厨房からハンナの声が響く。
「おーい、二人とも! そろそろ焼きに入るよ!」
ハンナの明るい声に、エリは小さく笑った。
「うん! 行かなきゃ」
「行きましょう」
二人が並んで厨房へ向かうその歩みは、
昨日より少しだけ強く、少しだけ軽かった。
外の影が何者であろうと、
エリは自分の歩みを止めないと決めたのだ。
その隣には、
必ず支えると誓ったセシルが立っている。
その事実が、今のエリにとって一番の支えだった。
本日の収支記録
項目内容金額
収入店頭販売(通常)+22
収入店舗手伝いの取り分+20
合計+42
借金残高22,462 → 22,420リラ
セシルの一口メモ
恐れを抱くのは、前へ進んでいる証です。
その恐れを越えるたび、エリはまた強くなる。
私は、その隣を離れません。




