第60話 決断の行方と、ひと筋の光
商人連合の使者が去ったあと、
麦猫堂には静かな緊張が漂っていた。
ハンナは腕を組み、ぶつぶつと考え込んでいる。
セシルは黙って様子をうかがいながら、店の入り口へ視線を向けていた。
エリは手元の布巾を握ったまま、
胸の奥のざわつきを必死に落ち着けようとしていた。
(どうしよう……どうしたらいいの)
卸しを受けるかどうか。
店の未来に関わる大きな決断。
けれど今は、別の恐れも絡みついていた。
影の存在。
噂の広がり。
街の風向き。
どれも、自分が軽く扱っていいものではない。
ハンナが口を開いた。
「エリ。さっきの使者の人、どう受け止めた?」
「うーん……急がないって言ってくれたけど……
すごく、危ないものを踏んでるみたいな感じがして……」
「危ない、ねぇ」
ハンナが息をつき、セシルへ視線を送る。
「アンタはどう思う?」
「卸しの話自体は悪いものではありません。しかし――」
セシルはわずかに声を低くした。
「エリの安全を脅かす要素が重なっている以上、
今は慎重すぎるほど慎重であるべきです」
「やっぱり……」
どちらの言葉も胸に響く。
そして、どちらも正しい。
だからこそ。
(私……どうしたらいいの)
そのとき、店の扉が控えめに開き、
小柄な影がひょこっと顔を出した。
「エリちゃーん。いるー?」
「あ、リサさん!」
リサは街の雑貨屋の店主。
扱っているのは小さな布製品や、手作りの小物。
店の常連でもある。
「さっきね、商業区でちょっと話を聞いちゃってさ」
「話……?」
リサは周囲を見回し、声を落とした。
「麦猫堂さんが卸しを始めるって噂、もう広まってるよ。
でもね――それ以上に、変な話が流れてるの」
エリの心臓が跳ねた。
「変な話……?」
「うん。なんかね、
元侯爵家のお嬢さんが、パン屋で成り上がろうとしてるって」
エリの身体がびくりと反応する。
「誰かが、わざと流してる感じ。
ただの興味本位の噂とは違うね」
セシルが小さく目を細めた。
「出所に心当たりは?」
「それがね……ちょっといやーな空気のとこから聞いたのよ。
商業区の裏で動いてる連中が、最近妙にエリちゃんの話をしてる」
ハンナが息を呑む。
リサは続けた。
「だから、卸しの話、急ぐ必要ないと思う。
今は、周りの空気が落ち着くまで……」
エリは、その言葉に胸がぎゅっと締めつけられた。
(私のせいで……店にまで変な噂が……?)
リサは優しく微笑んだ。
「でもね、エリちゃん。ひとつだけ言わせてよ」
「え……?」
「噂がどうあれ、街の人はエリちゃんのパンと働き方を見てるよ。
だから、正面から恥じない働きしてれば、大丈夫」
その言葉は、不思議と胸の奥に温かく広がった。
(リサさん……ありがとう)
リサは手を振って店をあとにした。
扉の音が小さく響き、
麦猫堂に再び静けさが戻る。
セシルがエリへ向き直る。
「エリ。決めるのはあなたです。
店の未来も、あなたの進む道も」
「……うん」
胸の奥の迷いは、まだ消えてはいない。
けれど、さっきより少しだけ、前を向ける気がした。
「卸しの話……今は受けない方がいいと思う。
ちゃんと準備して、店も私も整ってから……
その時にもう一度考える」
ハンナは目を丸くしたあと、ゆっくりと笑った。
「そうかい。アンタがそう決めたなら、あたしは応援するよ。
焦って飛び込んで、パンがまずくなっちゃあ本末転倒だからね」
「……ありがとう、ハンナさん」
セシルも静かに頷いた。
「良い判断です。
エリの決断なら、私は全力で支えます」
エリは深く息を吸い、胸に手を当てた。
(大丈夫。焦らなくてもいい。
私は今、ちゃんと自分で考えて進んでる)
窓から差し込む夕の光が、
店内の小麦粉の粒をきらきらと照らしていた。
まるで、その小さな決意を祝福するように。




