第59話 交渉の席に立つ者
麦猫堂に戻ったあとも、昼食会の余韻は消えず、
エリの胸の奥には、まだ落ち着かないざわつきが残っていた。
奥様ルチアの言葉。
街に広がり始めた噂。
そして、見えない影の気配。
(私のことを……知っている人が、まだいる)
その事実が、胸を締めつけていた。
「エリ、戻ったかい。ちょうどよかったよ」
ハンナが、カウンターに置かれた木箱を指さした。
「南部商業区の人間がね、また来てさ。これを置いていったんだよ」
箱の中には、銀貨袋がひとつ。
横には手紙が添えられていた。
「卸しの件、前向きに返事を願いたい。
麦猫堂の評判を広げる機会になるはずだ」
エリは思わず眉を寄せた。
「あの商人の人……また」
「なんだい、エリ。悪い話じゃないだろう?」
ハンナは腕を組む。
「うちは小さい店だけどさ、こういうチャンスは逃すとあとがないよ」
「でも……急に広げすぎたら……」
口に出すと、胸の奥がきゅっと縮む。
また、誰かをがっかりさせるかもしれない。
誰かを傷つけてしまうかもしれない。
そんな恐れが、まだ消えない。
そのとき、後ろから静かな声が落ちた。
「ハンナさん。ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
セシルが一歩前に出た。
「卸しを受ければ、麦猫堂の負担は確実に増えます。
その場合、品質の維持に影響が出る可能性も高い」
「そりゃあ、まあ……多少は無理が出るだろうね」
「その無理が、店を長く続ける上で最も危険です」
ハンナが軽く口を開きかけたが、セシルは下げた声で続けた。
「私はエリを守るためにここにいます。
仕事量が限界を超えれば、必ずひずみが生じます」
「……厳しいねえ、アンタはいつも」
「慎重が、一番の防壁です」
ハンナはため息を吐き、カウンターに手を置いた。
「でもねえ、慎重すぎたら、店は広がらないよ」
二人の視線が静かに交差した。
(どうしよう……どっちの気持ちも分かる)
店の未来を考えるハンナの気持ち。
無理をさせまいとするセシルの想い。
どちらも間違っていない。
だからこそ、エリの胸は揺れた。
「エリ。あなたはどう思いますか」
セシルの視線がこちらへ向く。
真剣で、静かで、優しい目。
「私は……」
その瞬間、店の扉が控えめにノックされた。
「麦猫堂さん。お取り込み中失礼いたします」
扉の向こうに立っていたのは、きちんとした外套をまとった男性。
控えめで丁寧な所作だが、街の一般客ではない。
「突然で申し訳ありません。私は商人連合の者です」
「商人連合……?」
エリの胸が緊張で固くなる。
男性は軽く会釈をして続けた。
「麦猫堂さんに、卸し取引の意向を確認したいと連絡が入りまして。
ひとつ、正式に判断を伺いたいのです」
ハンナがわずかに身を乗り出す。
「そりゃあ急だね。まだ話し合いも途中なんだよ」
男性は穏やかな笑みを保ちながら言った。
「ただ、最近この街で、
麦猫堂さんの評価が上がるにつれ、あまりよくない噂も耳にします」
「よくない噂……?」
エリが息を呑む。
「ええ。根拠はありませんが……
ただ、明確な用件の匂いだけが漂っていましてね」
店の空気がわずかに張り詰める。
セシルが静かに前へ出た。
「状況は把握しています。
ですが、判断にはもう少し時間をいただきたい」
「承知しました。急かすつもりはありません」
男性は深く頭を下げた。
「ただ――慎重にお考えください。
この街の風向きは、今、少しばかり不穏ですので」
そう言い残し、商人連合の使者は店を去っていった。
扉が閉まった瞬間、エリの胸の奥に寒気が走った。
(また……風が変わろうとしてる)
「エリ」
セシルがそっと呼んだ。
「ここから先は、あなたの選択が道になる。
焦らなくていい。だが、目を逸らしてはいけない」
エリは深く息を吸い、胸に手を当てた。
不安も、期待も、全部抱えたまま。
それでも前に進むために。
「……私、自分で決めるよ」
その声は、ほんの少し震えていたけれど、
確かに自分の足で立とうとする力がこもっていた。
本日の収支記録
項目内容金額
収入店頭販売(通常)+20
収入店舗手伝いの取り分+20
合計+40
借金残高22,560 → 22,520リラ
セシルの一口メモ
選択には重さがあります。
しかし、選ぶことを避けるのは成長を逃すことでもあります。
エリの決意を、私は誇りに思います。




