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第5話 パンと涙と、夕焼けの契約

その日の朝、空はまるで焼きたてのパンみたいな色をしていた。

 淡い金と桃のあいだ。

 冷たい風の中で、煙突から上がる白い煙が、ゆっくりと空へ溶けていく。


「今日で試用期間、最終日だね」

 ハンナがパン生地を叩きながら言った。

 軽い口調だけど、私の胸はどきりと跳ねる。


「三日があっという間だった気がします」


「三日って、働く人間からしたら一週間分だよ。……慣れてきたみたいだね」


「はい!」


「でも、気を抜くと焦げる」


「うっ……」


「焦げると給料も焦げる」


「それは困ります!」


 私の返事に、ハンナがけらけらと笑った。

 笑い声が、パンの膨らむ音と混ざって、朝の台所に響く。

 セシルは黙々と道具を磨いていた。

 何気なく見ると、その指先に昨日よりも小さな傷がある。


「セシル、それ……」


「お嬢様、パン切り包丁の刃先は予想以上に鋭利です。観察結果です」


「だからって無表情で出血報告しないで!」


「事実申告です」


「もう……ハンナさん、絆創膏あります?」


「あるよ。……まったく、あんたら見てると漫才みたいだね」


     ◇ ◇ ◇


 昼の休憩時。

 焼き立ての陽だまりパンを三つ、籠に並べて客席へ運ぶ。

 陽に照らされて湯気が立つ様は、まるで希望の香りそのものだ。


「これが、私の仕事……」


 思わず呟く。

 誰かに命じられてやるのではなく、自分の意志で焼いて、届けて、笑われて、喜ばれて。

 働くという言葉が、少しずつ心に沁みていく。


「エリ、こっちの会計、頼む!」


「はいっ!」


 声をかけられて、私は急いで駆け寄る。

 釣銭を受け取る指先が、もう震えない。

 かつて社交界で握手したときよりも、ずっと確かな温度があった。


     ◇ ◇ ◇


 夕方。

 店の灯を落とし、最後の焼き上がりを見届けたころ、ハンナが帳面を閉じた。


「さて――今日で試用三日、無事終了。……おめでとう、エリ。明日から正式採用だよ」


「っ……!」


 胸の奥が一瞬で熱くなった。

 言葉が出ない。

 ただ、うるんだ目でハンナを見た。


「泣くなよ、パンが湿る」


「っ……はい、でも……ありがとうございます……!」


「礼はいらない。あたしは金で人を雇ってるだけ。

 でもね、働くってのは、自分の居場所を選ぶってことだよ。

 あんたがここを選んだ。それだけで十分」


 その言葉が、胸の奥に沁みていった。

 セシルが隣で、静かに頭を下げる。


「お世話になります。……お嬢様、正式に労働者ですね」


「やめて、そんな言い方!」


「事実申告です」


「……うれしいけど、なんか複雑!」


 笑い合う。

 夕焼けの光が窓から差し込み、カウンターの上を黄金色に染めていた。


     ◇ ◇ ◇


 閉店の支度を終えるころ、店の外から声がした。

 低く、よく通る男の声。

 ハンナが首を傾げて扉を開ける。


「すまない。ここにセシル・クレインという男はいるか?」


 その名に、空気が一瞬止まった。

 セシルが顔を上げる。

 扉の外に立っていたのは、見覚えのある紋章入りの外套――

 没落したはずのリースフェルト家の紋章。

 だが、その印章を掲げることを許される者など、もういないはずだった。


「……久しいな、セシル」

 男の声は低く重い。

 セシルの瞳に、一瞬だけ影が落ちた。


「お嬢様。……いえ、エリ。先に帰宅を」


「どういうこと? あなたを探して――」


「問題ありません。……ただの、過去の清算です」


 淡々とした声。けれど、その指先は微かに震えていた。

 私は何も言えず、ただ彼の背中を見つめた。

 扉が閉まる直前、セシルは振り向かずに言った。


「――明日も、パンは焼いてください。それが、何よりの安心です」


 夕焼けの光が、彼の黒衣の裾を照らしていた。

 それはまるで、沈みかけの太陽に焼かれた誓いのように見えた。


     ◇ ◇ ◇


 その夜、私は眠れなかった。

 窓辺に座り、硬貨を数える。

 あの日の誓い――「働くのよ、セシル!」

 今度は、私が彼を支える番なのかもしれない。


 指先に触れる金の音が、やけに静かに響いていた。


     ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入日給+12

収入追加販売歩合+15

合計+27

借金残高24,946 → 24,919


セシルの一口メモ:

リースさんという偽名で働くお嬢様。身分より信用を得た初日です。

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