第58話 影の動きと、帰り道の決意
昼食会を終えてクレアル邸を出た瞬間、
エリは胸の奥に張りついていた緊張をふっと吐き出した。
「……ふぅ……終わった……」
門の前の石畳に、午後の日差しがやわらかく伸びている。
けれどその明るさとは裏腹に、胸にはルチアの言葉が残っていた。
――あなたの周りには、良くない風が吹き始めています。
(怖い……でも、逃げたくない)
そんな揺れる思いに気づいたのか、
セシルが隣から静かに声をかけた。
「疲れましたか、エリ」
「……うん。でも……不思議と、嫌な疲れじゃないよ」
「それは良かった。
奥様の言葉は気にしすぎなくていい。
だが、心に留めておくことは必要です」
「怖がりすぎず、でも油断しない……ってこと?」
「その通りです」
セシルの声は落ち着いていて、
エリの心のざわつきを吸い込むようだった。
(大丈夫……セシルがいる)
そう思えた瞬間、胸の重さが少し軽くなる。
二人はクレアル邸の前を離れ、街へ戻る道を歩き始めた。
◇ ◇ ◇
貴族街を抜け、徐々に人通りが増えていく。
香辛料の匂い、露店の声、子どもの笑い声――
いつもの街の喧騒が少しずつエリの心を現実に戻していった。
「……ねえ、セシル」
「はい」
「私……
もし、本当に誰かが私を探してても……
麦猫堂を離れたくない」
セシルは歩みを止め、エリの横顔を見る。
「それが、エリの選んだ道ですね」
「うん。
パンを焼いて、街の人に届けて……
怖くて、不安で、未だに自信は全然ないけど……
でも、ここが好き」
その言葉に、セシルの目がわずかに柔らかくゆらいだ。
「ならば、私はその道を守ります。
何があろうと」
「……ありがとう」
エリは胸に小さな灯がともるのを感じた。
◇ ◇ ◇
一方その頃、街の別の路地。
黒い外套をまとった影が、別の男と短く言葉を交わしていた。
「……動きは?」
「確認した。確かに、娘は街で働いている」
「リースフェルト家に戻る気は?」
「まったくないようだな。
……あの執事も、厄介だ」
影の男は低く笑う。
「だが、関係ない。
命令は――娘を捕らえ、連れ戻すことだ」
「了解した」
路地に風が吹き抜け、影が消えるように散った。
◇ ◇ ◇
夕暮れ時、麦猫堂へ戻ったエリを
ハンナがにこにこしながら迎えた。
「おかえり、どうだった? 昼食会!」
「すっごく……緊張したけど……
でも、大丈夫でした」
「そうかい、よく頑張ったねえ!」
ハンナの笑顔に、昼の重たい空気が少しだけ吹き飛んだ。
エリはエプロンをかけ直し、
軽く伸びをしながら厨房へ入る。
(怖いこともあるけど……
やっぱり私は、ここで生きたい)
その思いが胸の奥に静かに沈み、
確かな決意に変わっていった。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目|内容金額
収入|昼食会で外出につき作業なし|0
合計| |0
借金残高:22,560リラ(変動なし)
セシルの一口メモ
光のある場所には影が寄る。
しかし、影は光の強さを示す指標でもあります。
エリの進む道が照らされ続けるよう、私は影を払います。




