第57話 昼食会で告げられた影の気配
昼食会の席には、香草の香りとあたたかいスープの湯気が漂っていた。
緊張していたはずなのに、その香りが胸を少しずつほぐしていく。
「どうぞ、召し上がってください。気を使う必要はありませんわ」
ルチアの柔らかな声に、エリは小さく頷いた。
「いただきます……」
スプーンを口に運ぶと、優しい味が広がった。
貴族時代に供されていた豪奢で冷たい料理とは違う、手料理のぬくもり。
(こんな食事……久しぶりかも)
思い出しそうになった過去を慌てて押し込めたそのとき、
ルチアが静かに問いかけてきた。
「エリさん。あなたは、今の生活をどう思っているのかしら」
エリはスプーンを止めた。
「え……?」
「麦猫堂で働き、パンを焼き、街の人たちに届ける生活。
それは、あなたにとって苦しいものですか?
それとも――望んだものなのですか?」
胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
(望んだ……? 私は本当に、望んだのかな……?)
婚約破棄で家を失い、行き先もなく街をさまよい、
気づけばパンを焼く毎日になっていた。
「……正直に言うと、分からないんです」
「分からない?」
ルチアの瞳は穏やかに揺れた。
「はい。麦猫堂が好きで、パンを焼くのも楽しくて……
でも、それが本当に私の望んだ道なのか……まだ確信がなくて」
自分の声が震えていることに気づき、エリは唇を噛んだ。
胸の奥の不安をそのまま言葉にしたのは、生まれて初めてかもしれない。
ルチアはしばらく黙り、エリを優しく見つめた。
「エリさん。人は皆、確信など持たずに一歩を踏み出すものですよ。
確信は……進んだ先で生まれるものです」
その言葉が、静かにエリの胸へ沈んでくる。
(進んだ先で……生まれる……)
緊張が少し緩んだその瞬間、
ルチアの声色に、わずかな影が落ちた。
「ただ――」
空気が薄く揺れる。
「あなたの周りには、今……良くない風が吹き始めています」
エリの心臓がひゅっと縮んだ。
セシルがわずかに眉をひそめる。
「……どういうことですか、奥様」
セシルが低く問う。
「確証はありません。ですがここ数日、街で妙な噂を耳にします。
貴族を追われた娘が、パン屋で名を上げていると」
エリの背筋が震えた。
(それって……私のこと……)
「噂には尾ひれがつきます。善意ばかりとは限りませんわ」
ルチアの静かな言葉に、
胸の奥で影がじわりと広がる。
「安心なさい。私はあなたを害するつもりはありません。
ただ、知っておいてほしかっただけです」
その優しさが逆に胸に刺さる。
息が浅くなったとき、隣から声が届いた。
「エリ。ここで不安を大きくしなくていい。
私がいる。どんな影も、必ず払います」
セシルの声は、揺れる心を支えるようにしっかりしていた。
ルチアはその様子を見つめ、ふっと微笑む。
「……安心できる人が隣にいるのですね。
それなら、今日お話しした価値はありました」
エリは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
(私……守られてる。ひとりじゃないんだ)
昼食会の空気は心のどこかを温めながらも、
同時に、目には見えない影の気配をかすかに残していた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目|内容金額
収入|本日は麦猫堂での販売・手伝いなし|0
合計| |0
借金残高:22,600リラ(変動なし)
セシルの一口メモ
休むべき日は、胸を張って休むべきです。
心を整えた時間もまた、確かな前進に繋がります。




