第56話 昼食会の準備と、胸に落ちる影
エリはアンナに連れられ、クレアル邸の奥へと案内されていた。
昼の陽光が廊下の白い床に反射し、静かな輝きが足元を照らす。
(昼食会なんて……没落後では初めてだよ)
胸の奥で小さく呟きながら、エリは無意識に指先を握りしめた。
「緊張していますか?」
隣を歩くセシルがそっと声を落とした。
「……してるよ。だって、何を話すのかも分からないし……
奥様に呼ばれるなんて、普通じゃないよね?」
「異例ではありますが、エリに不利益になる呼び出しではないはずです。
ルチア様は誠実な方だと感じました」
「……うん」
それでも胸はざわついていた。
没落した令嬢がパン屋で働き、商人連合の準会員に認められた、と
そうした噂が街じゅうに広がっている事実を、エリは知っている。
(みんな知ってる。あの人たちも、きっと……)
自分の過去も、弱さも、いまの姿も。
それをどう見られているか考えるだけで、足が少し重くなる。
「エリ。深呼吸を」
セシルがふっと囁いた。
エリは言われた通り、小さく息を吸い、吐く。
それだけなのに、心が少し落ち着いた。
「……ありがと、セシル。いつも助けてもらってるね」
「当然です。エリは私が支えると決めましたから」
不意の言葉に、エリの胸が熱くなる。
だが返事をする前に、アンナが振り返った。
「こちらです。奥様がお待ちです」
広間の扉が静かに開かれる。
中では、陽光を受けて輝く大きな円卓が整えられ、
その向かい側に、優雅な姿勢で座るルチアが微笑んでいた。
「ようこそ。どうぞ、おかけになって」
その声はやわらかく、空気を静かに整える。
エリは緊張しながら席についた。
「驚かせてしまったわね、エリさん。
でも、あなたにはゆっくり話したいと思っていたのです」
「わ、私に……ですか?」
「ええ。あなたの作るパンと、人柄に興味があります。
そして――何より気になるのは……」
ルチアの穏やかな瞳が、エリの心の奥を見透かすように向いてくる。
「あなたが、どこへ向かおうとしているのか……ということです」
その瞬間、エリの胸が大きく揺れた。
(私が……どこに、向かっているのか)
答えられず、ただ唇が震える。
けれどルチアは、責め立てるような空気は一切出さなかった。
「ゆっくりでいいのですよ。
私はあなたの選ぶ道を、急かすつもりはありません」
そのやわらかな声は、エリの緊張を溶かしていった。
(この人は……本当に、敵じゃないんだ)
胸の奥がふっと軽くなった気がした。
そんな折、セシルが静かに姿勢を正し、ルチアへ向けて言った。
「奥様。本日は心遣いに深く感謝いたします。
ですが、もしエリにご懸念があるのであれば、
どうか率直にお聞かせ願えませんか」
ルチアは小さく微笑む。
「心配ではありません。
ただ――エリさんが進む道が、どうか暗い影に飲まれぬようにと願っているだけです」
影――
その言葉に、エリは一瞬だけ息をのむ。
(やっぱり……誰か、何か、気づいてる?)
しかしルチアはそれ以上踏み込まず、優雅に紅茶を口に運んだ。
「さて。今日は堅い話をしに呼んだわけではありません。
まずは、あなたの苦労話でも聞かせていただこうかしら」
エリは小さく笑った。
ほんの少し、肩の力が抜けた気がした。
(大丈夫……たぶん、話せる。今の私なら)
昼食会は、静かに始まった。
本日の収支記録
項目内容金額
収入店頭販売(控えめ)+15
収入店舗手伝いの取り分+20
合計+35
借金残高:22,635 → 22,600リラ
セシルの一口メモ
影に怯える必要はありません。
エリが前を向く限り、私は必ず隣に立ち続けます。




