第53話 揺れる麦猫堂と、守るべきもの
路地裏での緊張が解けたのは、夜風が冷たく吹きはじめたころだった。
影たちはセシルの眼差しに気圧され、舌打ちを残して散っていった。
(今は追うべきではない……戻らなければ)
エリの顔が脳裏に浮かぶ。
怯えた表情をさせたくなかった。
セシルは足早に麦猫堂へ向かった。
◇ ◇ ◇
「エリ、ただいま戻りました」
「……セシル!」
扉を開いた瞬間、エリが駆け寄るようにして来た。
その目には不安が濃く残っている。
「無事? 本当に?」
「ええ。問題ありません。むしろ……確認が取れました」
「確認……?」
セシルは声を低く落とした。
「影の者たちは、リースフェルト家の関係者でした。
ただ、家の命令というより……個人的な動きに近いようです」
「個人的……?」
エリの表情が強張る。
「私……何か恨まれるようなこと……」
「いいえ。あなたが原因ではありません」
セシルははっきりと言った。
「リースフェルト家の没落に伴い、職を失った者がいます。
その一部は、あなたに責任を押し付けたいのでしょう」
「そんな……」
喉が締めつけられるような感覚。
エリは思わず胸を押さえた。
(私……ただここで生きたいだけなのに)
すると、そっと肩に触れる指先があった。
「エリ。あなたは悪くありません。
理不尽な感情に振り回される必要はないのです」
「……セシル」
その言葉だけで、崩れそうだった心が少し持ち直した。
「ですが、対策は必要です。
しばらくは私が店の外回りを多く見て回ります」
「そんな……セシルに全部任せるわけには……」
「任せるのではありません。役割分担です」
エリは目を瞬いた。
「エリはパンを作って、人に届ける。
それがあなたの役目。
外から来るものを払うのは、私の役目です」
淡々とした言葉なのに、
胸の奥がじんわり温かくなった。
(セシル……ありがとう)
◇ ◇ ◇
その日の夜の仕込みは、いつもより静かだった。
エリの手はときおり震えつつも、確かに動いている。
ハンナが、生地を見ながらぽつりと言った。
「怖かったら言いな。働き方は少し休んだっていいさ」
「……ううん、休まない。
私は、ここで働きたいから」
「そうかい」
ハンナはにっこり笑う。
「なら、あたしも全力で守るよ。小さな店でも、暖簾を守るのは大事さね」
「……うん!」
エリは強く頷いた。
怖さはまだ消えない。
けれど、それを覆うように――守られている温かさがあった。
(私……大丈夫。もう逃げない)
エリは指先に力を込め、生地を丸めた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(通常) +20
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +40
借金残高 22,675 → 22,635リラ
セシルの一口メモ
恐れが芽生えるのは、生きようとしている証拠です。
その芽を折らず、見守りながら進むことが大切なのです。




