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第52話 不穏な影の正体

その夜、麦猫堂の厨房に残った甘い香りとは裏腹に、エリの胸は冷えたままだった。

フードの影が残した言葉が、何度も頭の中で響く。


(リースフェルト家の……娘)


「エリ。水をどうぞ」


「……ありがとう、セシル」


差し出された水を飲んでも、震えは完全には止まらなかった。


「どういうことなんだろう。私の名前なんて、街の人たちは知らないはずなのに……」


「心当たりは、あるにはあります」

セシルが静かに答える。


「え……?」


「リースフェルト家が抱えていた使用人の中には、今も街で仕事をしている者がいます。彼らの中には、良い感情を持たない者もいるでしょう」


「でも……私、誰かを傷つけた覚えは……」


「エリ。貴族という存在は、その行いだけで評価されるものではありません」

セシルは淡々と言った。

「立場や家柄だけで、敵意を抱く者もいるのです」


(そう……なのかな)


胸がまたざわついた。


   ◇ ◇ ◇


翌朝。

寝不足のまま麦猫堂に向かうと、ハンナがいつも通りの明るさで迎えてくれた。


「おはよう、エリ。顔色悪いじゃないかい」


「だ、大丈夫。少し寝つけなかっただけで……」


「そうかい。無理するんじゃないよ。ほら、生地の仕込みから始めようか」


日常は続く。

パン生地はいつも通りの重さで、指先へ伸びてくるやわらかい感触も変わらない。

けれど、心の奥には不安が小さく残っていた。


「セシルも、今日はどうするの?」


「午前中は店で。午後、少し外を回ります」


「何か……探しに行くの?」


「保険のためです」


そう言うセシルの横顔は、いつもより硬かった。


   ◇ ◇ ◇


午後。

セシルは店を出て、街外れの広場へ向かった。


その場所は、かつてリースフェルト家の使用人たちが休憩で集まっていた場所のひとつだった。


(もし影が元使用人であれば、痕跡が残る可能性がある)


セシルは目立たぬように歩き、周囲を観察する。


「おや、誰かを探しているのかい?」


声をかけてきたのは、古着屋の店主だった。


「少々、人を探していまして」


「ふむ……フードをかぶった人物なら、最近見かけたねえ。向こうの路地に入っていったよ」


セシルは礼を言い、路地へ向かった。


その路地は細く、人通りも少ない。

壁の影が長く伸び、昼でも薄暗い。


「……ここか」


地面に、靴の跡がかすかに残っている。

街の人間にしては珍しい、よく磨かれた革靴。


(街の労働者の足跡ではない……)


警戒しながら先へ進むと、奥の角で誰かの声が聞こえた。


「……見つけたのか」


低く乾いた声。


「いや。だが、確かにあの娘だった」


セシルは身を固くした。


(やはり……狙いはエリか)


「リースフェルト家の娘が、まさか場末のパン屋にいるとはな」


「ふん。没落の噂は本当だったようだな」


皮肉げな声に、セシルの瞳が鋭さを帯びる。


   ◇ ◇ ◇


一方そのころ、麦猫堂では――


「エリ、ちょっと手を貸しておくれ」

ハンナの声が厨房に響く。


「は、はい!」


生地を捏ねながら、エリは不安を振り払おうとしていた。


(大丈夫、大丈夫……もし何かあっても、セシルが……)


そう思っても、心は落ち着かない。


ふと、店の扉が小さく揺れた。


「いらっしゃいま……せ?」


入ってきたのは、昨日見かけたフードの影ではなかった。

だが、その風貌はどこか似ている。

粗末ではないが、街人の服でもない。


「パンを……ひとつ」


低い声。


(……誰?)


胸がざわつく。


   ◇ ◇ ◇


路地裏では、影の会話が続いていた。


「……それで、お前が動くのか」


「ああ。今度こそ間違いない。エリシア・フォン・リースフェルト」


セシルの心臓が鋭く跳ねた。


(名前まで……)


「次に姿を見たら、逃がすな」


その瞬間、影のひとりが動きかけた。


だが――


「動かないほうが賢明ですよ」


路地に低い声が響いた。


「……誰だ」


セシルが姿を現した。


「彼女に手を出すのであれば、相応の覚悟をしていただく」


影の一人が舌打ちした。


「元執事が守るとでも?」


「ええ。元だろうと今だろうと、守るものは変わりません」


張りつめた空気が路地に流れた。


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目|内容金額リラ

収入|店頭販売(控えめ)|+18

収入|店舗手伝いの取り分|+20

合計||+38

借金残高 22,675 → 22,637リラ


セシルの一口メモ

危険が姿を見せた時こそ、冷静さが必要です。

恐怖を正しく測れる者だけが、守るための一手を選べるのです。

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