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第51話 忍び寄る影

その夜、麦猫堂の厨房に残った甘い香りとは裏腹に、

 エリの胸は冷えたままだった。


 フードの影が残した言葉が、何度も頭の中で響く。


(リースフェルト家の……娘)


「エリ。水をどうぞ」


「……ありがとう、セシル」


 差し出された水を飲んでも、震えは完全には止まらなかった。


「どういう……ことなんだろう。

 私の名前なんて、街の人たちは知らないはずなのに……」


「心当たりは、あるにはあります」

 セシルが静かに答える。


「え……?」


「リースフェルト家が抱えていた使用人の中には、

 今も街で仕事をしている者がいます。

 彼らの中には、良い感情を持たない者もいるでしょう」


「でも……私、誰かを傷つけた覚えは……」


「エリ。貴族という存在は、その行いだけで評価されるものではありません」

 セシルは淡々と言う。

「立場や家柄だけで、敵意を抱く者もいるのです」


(そう……なのかな)


 胸がまたざわついた。


   ◇ ◇ ◇


 翌朝。

 寝不足のまま麦猫堂に向かうと、

 ハンナがいつも通りの明るさで迎えてくれた。


「おはよう、エリ。顔色悪いじゃないかい」


「だ、大丈夫。少し寝つけなかっただけで……」


「そうかい。無理するんじゃないよ。

 ほら、生地の仕込みから始めようか」


 日常は続く。

 パン生地はいつも通りの重さで、

 指先へ伸びてくるやわらかい感触も変わらない。


 けれど、心の奥には不安が小さく残っていた。


「セシルも、今日はどうするの?」


「午前中は店で。

 午後、少し外を回ります」


「何か……探しに行くの?」


「保険のためです」


 そう言うセシルの横顔は、

 いつもより硬かった。


   ◇ ◇ ◇


 午後。

 セシルは店を出て、街外れの広場へ向かった。


 その場所は、かつてリースフェルト家の使用人たちが

 休憩で集まっていた場所のひとつだった。


(もし影が元使用人であれば、痕跡が残る可能性がある)


 セシルは目立たぬように歩き、

 周囲を観察する。


「おや、誰かを探しているのかい?」


 声をかけてきたのは、

 古着屋の店主だった。


「少々、人を探していまして」


「ふむ……フードをかぶった人物なら、

 最近見かけたねえ。向こうの路地に入っていったよ」


 セシルは礼を言い、路地へ向かった。


 その路地は細く、人通りも少ない。

 壁の影が長く伸び、昼でも薄暗い。


「……ここか」


 地面に、靴の跡がかすかに残っている。

 街の人間にしては珍しい、よく磨かれた革靴。


(街の労働者の足跡ではない……)


 警戒しながら先へ進むと、

 奥の角で誰かの声が聞こえた。


「……見つけたのか」


 低く乾いた声。


「いや。だが、確かにあの娘だった」


 セシルは身を固くした。


(やはり……狙いはエリか)


「リースフェルト家の娘が、

 まさか場末のパン屋にいるとはな」


「ふん。没落の噂は本当だったようだな」


 皮肉げな声に、セシルの瞳が鋭さを帯びる。


   ◇ ◇ ◇


 一方そのころ、麦猫堂では――


「エリ、ちょっと手を貸しておくれ」

 ハンナの声が厨房に響く。


「は、はい!」


 生地を捏ねながら、

 エリは不安を振り払おうとしていた。


(大丈夫、大丈夫……

 もし何かあっても、セシルが……)


 そう思っても、心は落ち着かない。


 ふと、店の扉が小さく揺れた。


「いらっしゃいま……せ?」


 入ってきたのは、

 昨日見かけたフードの影ではなかった。


 だが、その風貌は似ていた。

 粗末ではないが、街人の服ではない。


「パンを……ひとつ」


 低い声だった。


(……誰?)


 胸がざわつく。


   ◇ ◇ ◇


 路地裏では、影の会話が続いていた。


「……それで、お前が動くのか」


「ああ。今度こそ間違いない。

 ――エリシア・フォン・リースフェルト」


 セシルの心臓が鋭く跳ねた。


(名前まで……)


「次に姿を見たら、逃がすな」


 その瞬間、

 影のひとりが動きかけた。


 だが――


「動かないほうが賢明ですよ」


 路地に低い声が響いた。


「……誰だ」


 セシルが姿を現した。


「彼女に手を出すのであれば、

 相応の覚悟をしていただく」


 影の一人が舌打ちした。


「元執事が守るとでも?」


「ええ。

 元だろうと今だろうと、

 守るものは変わりません」


 張りつめた空気が路地に流れた。


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入店頭販売(通常)+20

収入店舗手伝いの取り分+20

合計+40

借金残高22,715 → 22,675リラ


セシルの一口メモ

脅威は、静かに近づいてくるものです。

気づけた者だけが、正しく守る準備を整えられます。

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