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第50話 増える依頼と、すれ違う気持ち

クレアル邸への納品が始まって三日目。

 陽だまりパンは変わらず喜ばれ、

 アンナからの受け取りも毎回丁寧だった。


 そんな日々が続く中、麦猫堂には昨日にも増して客が押し寄せていた。


「これ、クレアル家で食べたっていうパン?」

「そうそう。あの屋敷の奥様が気に入ってるって話よ」

「じゃあ、ひとつちょうだい!」


 噂は想像以上の速さで広がっていく。


「すごい人気だよ、エリ」

 ハンナが嬉しそうに笑う。


「嬉しいです。けど……なんだか、少しこわい」


「こわい?」


 エリは手元のパン生地を見つめて息をついた。


「期待が大きくなると……失敗できないって思っちゃって……」


「それはね、エリがちゃんと信用を得てきた証拠だよ」

 ハンナは穏やかに言った。

「大丈夫。あたしゃ、あんたの焼いたパンを信じてるよ」


 その言葉は嬉しいのに、胸の隅に小さな不安の影がまだ残る。


   ◇ ◇ ◇


 昼頃、店にまた見知らぬ商人が現れた。


「麦猫堂さん。クレアル家に納めているパンについてだが……

 うちの茶会にもぜひ卸してほしい。特別価格で頼みたい」


 昨日の商人とは違う。

 だが笑顔の奥の打算は似ていた。


「申し訳ありませんが、今は余裕がありません」

 セシルが冷静に牽制する。


「そこをなんとか。ほら、これは先払いだ」

 商人が銀貨袋を取り出そうとする。


「受け取れません」

 セシルの声が低く鋭い。


「む……」


 気圧された商人は、舌打ちしながら店を出る。


 扉が閉まった後、エリは胸を押さえた。


「ねえ……やっぱり、無理してるのかな。

 こんなに注文が増えたら、いつか誰かをがっかりさせちゃう……」


「エリ。慎重であることは大事ですが、怖れすぎてはいけません」

 セシルは落ち着いた声で言った。

「判断はハンナさんと相談して行えば十分です」


「うん……」


 そう返事をしたものの、

 胸に残る重さは取りきれなかった。


   ◇ ◇ ◇


 その夜の閉店後。

 厨房には三人のため息が重なっていた。


「今日もすごかったねえ」

 ハンナが腰を叩く。

「でもこれ、受けられる依頼は受けたほうがいいよ。

 麦猫堂の名前を広げる絶好の機会だ」


「たしかに……でも」

 エリは迷いを隠せない。

「急に広げすぎて、崩れちゃったら……」


「崩れやしないよ。あたしたちは丁寧に作って、丁寧に売るだけさ」


 強い口調に、エリは少し言葉を飲み込む。


「セシルはどう思う?」

 エリが尋ねる。


「私は……慎重に進めるべきだと思います」

 セシルは淡々と言った。

「急な拡大は、予期せぬ問題を招きます」


「ちょっと待ちな。慎重に慎重にじゃ、何も広がらないじゃないか」

 ハンナが反論する。


「ですが、無理な拡大は危険です」


「危険ばっかり言ってたら、パン屋なんてやってられないよ」


 二人の声の温度差が、

 厨房にひび割れのような空気を作った。


 エリはうつむく。


(どうしよう……私は……)


 どちらの気持ちもわかるのに、

 自分の答えがわからない。


   ◇ ◇ ◇


 その時だった。


 外から、かすかに足音が聞こえた。


「……誰か、いる?」


 エリが扉をそっと開ける。


 薄暗い路地に、

 フードを深くかぶった影が立っていた。


 その影は、エリを見て小さくつぶやいた。


「――リースフェルト家の……娘」


 エリの心臓が一瞬で凍りつく。


「え……?」


 影は返事を待つこともなく、

 すっと暗闇に消えていった。


 扉を閉めたエリの手は、震えていた。


「今……なんて……」


 沈黙の中、セシルがゆっくりとエリの肩に手を置く。


「……エリ。

 少し、状況を慎重に見たほうがよさそうです」


 その声は、いつもより低く静かだった。


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入店頭販売(多め)+30

収入店舗手伝いの取り分+20

合計+50

借金残高22,765 → 22,715リラ


セシルの一口メモ

風向きが変わる時ほど、心の声を聞くべきです。

目の前の光に焦らず、影の気配にも耳を澄ませてください。

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