第49話 街に広がる噂と、不安な影
納品初日を終えてから二日。
麦猫堂には、いつもより多くの客が訪れていた。
「ねえ、ここがあの……クレアル家にパンを納めてる店?」
「そうそう。なんでも朝食に出されてるらしいよ」
客たちがひそひそ声で話す。
「すごいねえ、ハンナさん!」
常連の主婦が言う。
「いやいや、すごいのはこの娘だよ」
ハンナは笑いながらエリの肩を軽く叩いた。
「えっ、わ、私……?」
「当たり前じゃないか。あんたが丁寧に売って、
味わってもらったからこそ、こうして繋がったんだよ」
周囲からも視線が集まる。
(嬉しいけど……なんだか、落ちつかない)
胸がそわそわして、手元が少し震える。
◇ ◇ ◇
その日の昼下がり。
いつものように仕込みをしながら、
エリは小さな不安を抱えていた。
「セシル……私、なんだか……こわい」
「何がですか」
「こんなふうに、みんなから『あのパン屋』って見られて……
変な期待されて……うまくできなかったらって思うと……」
「それは自然な感情です」
セシルは手元の皿を整えながら、ゆっくりと言った。
「ですが、その不安は裏を返せば、進んでいる証拠でもあります」
「進んで……?」
「期待を向けられるのは、価値があるからです。
かつてのエリなら、期待すらされなかったでしょう」
「……それは、そうだけど」
言われてみれば、胸が少し軽くなる。
(そうだ……私は逃げてばかりだった。
でも今は、向き合いたいと思ってる)
心が、ほんの少しだけ強くなる。
◇ ◇ ◇
そんな中、店の扉が勢いよく開いた。
「やあ、噂の娘さんはどこかな!」
大きな声と共に現れたのは、
商人風の男。
上等な外套を羽織り、笑顔の裏に抜け目のなさを隠している。
「あんたは……」
ハンナが眉を上げる。
「おっと失礼。私は街南部の商業区で店をやっている者だよ。
いやあ、クレアル家にパンを納めるなんてすごいじゃないか!
できれば、うちにも卸してほしくてね」
「え、卸……?」
「そうそう。毎朝十個ほどでいいんだが。
もちろん通常より良い値で買うよ」
エリの心臓が跳ねた。
(すごい話……だけど、そんな簡単に……)
「ハンナさん……」
「ちょ、ちょい待ちなって。話が早すぎるよ」
ハンナが男に向き直る。
「こっちは小さな店だよ。そんな余裕はないんだ」
「そこをなんとか。
ほら、クレアル家だけじゃ需要に応えきれないだろう?」
その言葉に、エリの胸がざわりと揺れる。
(たしかに……注文は増えてる。
でも、無理をしたら……)
セシルが一歩前に出た。
「申し訳ありませんが、今すぐに返事はできません。
こちらとしても状況を見極める必要があります」
「ふむ……執事さんは堅いねえ」
「仕事ですので」
商人は苦笑して肩をすくめた。
「まあいい。今日は挨拶だけにしておくよ。
検討しておいてくれ」
そう言い残して、商人は店を出て行った。
◇ ◇ ◇
扉が閉まると、店内の空気が少し重くなった。
「……ああいう人、いるんだね」
エリが小さく呟く。
「あれはまだ優しいほうさ」
ハンナが苦い顔で言った。
「儲かりそうな匂いがすれば、街中の商人が寄ってくるだろうね」
「やっぱり……」
エリの胸がまたざわつく。
するとセシルが、エリの手元をそっと見た。
「手が震えていますよ」
「えっ……あ……」
「構える必要はありません。
ただ、慎重になればよいだけです」
そう言われても、不安は完全には消えない。
(私……また、何かに巻き込まれていくのかな)
ふと窓の外を見ると、
通りの向こうから、じっとこちらを見ている人物がいた。
フードを深くかぶり、顔はよく見えない。
(誰……?)
エリが瞬きをした瞬間、
その影はすっと路地に消えた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入店頭販売(多め)+28
収入店舗手伝いの取り分+20
合計+48
借金残高22,813 → 22,765リラ
セシルの一口メモ
順調な時ほど、外からの風が強くなります。
遮るか、利用するかは、こちら次第です。




