第4話 客席の貴族と小さな誇り
昼の鐘が鳴る。
麦猫堂の店先には、香ばしい匂いと人の声が混ざり合っていた。
焼き立ての丸パンの列、子どもを抱いた母親、旅人、近所の職人たち。
その中に立って働く自分が、まだ夢のように感じられる。
「いらっしゃいませ! 陽だまりパン、本日も焼きたてです!」
声を張ると、ハンナが笑った。
「いい声だね、エリ。もう立派な看板娘だよ」
「看板娘……!」
「気取るなよ。パンより焦げやすいんだから」
「うっ……」
ハンナの冗談に苦笑しながら、私はパンを紙袋に詰める。
昨日よりも動作が滑らかだ。笑う余裕も少し出てきた。
外は冬の陽。
窓辺で膨らむパンの列が、まるで昼寝している子猫のように見える。
――この小さな世界が、少しずつ私の居場所になりつつあった。
◇ ◇ ◇
昼下がり。
ドアの鈴が鳴った瞬間、空気が少しだけ変わった。
絹のマント、銀の留め具。
扉をくぐったのは、街の客とは違う雰囲気の男女だった。
「ごきげんよう。この店、最近評判なのだとか」
「ようこそ。焼きたてですよ」ハンナが笑顔で迎える。
貴族風の客――その男の目が、こちらを見て止まった。
「……おや。君は――エリシア?」
時が止まったようだった。
その声。
かつての婚約者――ではない。
けれど、彼の隣にいたことのある顔だ。
婚約破棄を告げられたあの日、彼の後ろで笑っていた友人、クラウス・フォン・ラインベルク。
「ごきげんよう、クラウス様」
私はできる限り、平静に頭を下げた。
セシルがすぐに一歩、前に出る。
「お客様、当店ではお嬢様ではなくエリとお呼びください」
「ほう、執事殿か。変わらず忠実だね」
「事実申告です」
皮肉を返したようで返していない。セシルらしい。
ハンナは横目で一度だけ私を見る。――大丈夫か? という無言の問い。
私は小さく頷き、笑顔を作った。
「本日のおすすめは、陽だまりパンでございます」
「……陽だまり、か」
クラウスは興味深げに袋を手に取る。
指先が汚れるのを嫌ってか、白い手袋は外さない。
「それ、私が焼きました」
言葉が、自然に口から出た。
逃げない、と決めていたから。
「ほう。令嬢がパン職人とはね。まるで芝居の話のようだ」
「はい。滑稽でも、本気です」
クラウスの瞳が、少しだけ驚いたように細められた。
彼はパンを口に運び、静かに噛む。
ほんの一瞬、眉が上がった。
「……悪くない。柔らかい。甘さも程よい。まさか君が――」
「誰が焼いたかは関係ありません。お客様がおいしいと思えば、それで十分です」
セシルが穏やかに言った。
その声音は柔らかいが、刃のように鋭い。
クラウスは何か言いかけ、結局、硬貨を置いて出ていった。
鈴が鳴る。静かな余韻が残る。
◇ ◇ ◇
その後、店にはいつもの喧騒が戻った。
でも私は、胸の奥に小さなざらつきを感じていた。
過去が少しだけ追いついてきた気がして。
「エリ」
ハンナの声が、パンの焼ける香りを縫うように届いた。
「嫌な顔、してたよ。客の前でそんな顔しちゃだめだ。焼きたてのパンまで沈む」
「……ごめんなさい」
「謝るのはいいけど、次は笑いな。焼けたパンが冷める前にね」
言葉に救われた。
私は、また前を向いた。
オーブンの中では、新しいパンが息づいている。焦げないように、ちゃんと見ていよう。
◇ ◇ ◇
閉店後、ハンナが帳面を見ながら言った。
「エリ。あんた、よく耐えたね」
「耐える?」
「昔の知り合いが来るってのは、辛いもんだ。私も昔、客に笑われたことがある。
パン職人のくせに女かってさ。でも、続けてりゃ笑う奴の方が先に消える」
「……ハンナさん」
「胸張っときな。焦げも爆発も、いまはちゃんと味になってる」
涙がこぼれそうになった。
でも、こぼす代わりに笑った。
ハンナは満足げにうなずく。
「よし、明日は陽だまりパンを十個仕込もう。どうせまた売り切れる」
「はいっ!」
◇ ◇ ◇
帰り道、セシルが少しだけ言葉を選ぶように口を開いた。
「……クラウス様の件、よろしかったのですか?」
「うん。もういいの。
あの人にどう思われても、パンは嘘をつかない。
おいしいって言ったんだから、それがすべてよ」
「事実申告です」
「あなたの事実申告、便利ね」
「生きるための装備です」
夜風が冷たい。けれど、今日だけは寒くない気がした。
ポケットの中にある小さな硬貨が、星みたいに光っている。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入日給+10
収入販売分歩合+10
合計+20
借金残高24,966 → 24,946
セシルの一口メモ:
正式採用。肩書きがなくとも、仕事は人を貴くします。




