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第44話 家の影、パンの香りの中で

麦猫堂の裏手は、広場よりも静かで、

 風が店の甘い香りをそっと運んでいた。


 ミリアムはしばらく言葉を探すように視線を落とし、

 やがて小さく息を吸った。


「エリシア様……。

 本当に、お顔を見ることができて……ほっとしました」


 その声音には、嘘も飾りもなかった。

 エリは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


「ごめんね。何も言わずに屋敷を出て……」


「いいえ。エリシア様が謝る必要などありません」

 ミリアムは首を振る。

「ただ……あの日のことを、少しだけお伝えしたくて」


 セシルが隣で静かに目を細めた。


「続けてください、ミリアム殿」


   ◇ ◇ ◇


「婚約破棄の知らせが屋敷に届いた日のことです」

 ミリアムは言葉を選ぶように続けた。

「屋敷中がざわつきました。

 使用人たちの間でも、さまざまな噂が飛び交い……」


「そう、だったんだ……」


「本来であれば、わたしたち侍女が

 エリシア様を支えなければならなかった。

 ですが……」


 ミリアムは苦しげに唇を噛んだ。


「上から命令が出ました。

 エリシア様に近づくな。

 慰留も、助言もするな。

 見送ることすら許されませんでした」


 その言葉に、エリの胸がきゅっと痛む。


「……だから、誰も来なかったんだ」


「本当は……泣きながらお止めしたかったのです。

 ですが、侍女長も、わたしも……

 立場を奪われかねない状況で……」


 ミリアムの声が震える。


「それでも……わたしは、ずっと後悔していました。

 あの時、どうにかお側へ行くべきだったと」


「ミリアム……やめて。あなたは悪くないよ」


 エリはそっとミリアムの手を握った。

 その瞬間、ミリアムの瞳から涙がひとすじ落ちる。


   ◇ ◇ ◇


「もう一つ……エリシア様にお伝えしたいことがあります」


「……何?」


 ミリアムはまっすぐエリを見た。


「リースフェルト家は、今……揺れています」


「揺れてる……?」


「はい。

 婚約破棄の後処理を巡って家同士のやり取りが増え、

 侯爵様も奥様も執務が増え続けています。

 家中の空気も悪く……

 そして……」


 言いよどむ。


「そして……?」


「エリシア様がどこにいるか、

 いまだ把握していない方がいるのです」


「父様と母様……?」


 ミリアムは静かに頷いた。


「わたしは、家の命令に反してでも探しました。

 ですが、屋敷の上層部の多くは……

 エリシア様がどうしているか、気に留めていません」


 エリの胸に冷たい影が落ちた。


(そうだよね……

 あの日、私がどうなろうと……

 家にとっては厄介な処理でしかなかった)


 セシルが横でほんの少しだけ表情を曇らせた。


   ◇ ◇ ◇


「ですが……」

 ミリアムの声が少しだけ強くなる。

「わたしは、エリシア様がここで働いていると知って……

 安堵しました。

 穏やかな顔をしていて……

 誰かに守られて……」


 ミリアムの視線が、ちらりとセシルに向く。


「変わらずお側にいてくださったのですね、セシル様」


「当然の務めです」

 セシルは淡々と答える。


 エリは小さく笑った。


   ◇ ◇ ◇


「ミリアム……私はね、ここでやり直すって決めたの」


 エリは胸に手を当て、

 ゆっくりと言葉を続けた。


「家に戻るのは……たぶん、違うと思う。

 もう、侯爵令嬢としての私ではなくて……

 私自身の足で立つ私になりたいの」


 ミリアムは、少し驚いたように目を見開いた。

 そのあと、ほっと微笑む。


「……そうですね。

 エリシア様は、いつもまっすぐな方でした」


 その言葉が、胸の奥に温かく染み込んだ。


「ですが……困った時は、必ず頼ってください。

 たとえ家を出ていても、

 わたしはエリシア様を見捨てません」


「うん……ありがとう」


 ミリアムの手の温かさが、

 静かに心へ滲んでいく。


   ◇ ◇ ◇


「長居はできませんので……今日はこれで」

 ミリアムは一礼し、去っていった。


 その背中が角を曲がり、

 やがて見えなくなる。


「……セシル」

「はい」


「私、揺れてないように見えた?」


「少しだけ。

 ですが、最後の言葉は……本物でした」


 エリは空を見上げた。

 ほんの少しだけ、胸の重さが軽くなっていた。


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入午後の販売わずか+10

収入店舗手伝いの取り分+20

合計+30

借金残高22,990 → 22,960リラ


セシルの一口メモ

誰かが迎えに来ても、道を選ぶのは自分です。

揺れながら進む一歩こそ、本当に価値があるものです。

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