第3話 パン生地と陽だまり
朝――まだ空の色が冷たい。
夜明け前の街は、粉をこぼしたみたいに白く静かで、吐く息が小さな雲を描いていた。
「……寒い」
「温度計代わりですね。お嬢様の鼻は正確です」
「寒いって言ってるのよ」
「事実申告です」
セシルと二人、パン屋の扉の前に立つ。
鍵穴に霜がついていて、手がかじかむ。
こんな朝を迎えるなんて、数日前の私には想像もできなかった。
でも――悪くない。
寒い分だけ、誰かのぬくもりを思い出せる。
「おはよう、寝坊しなかったね」
ハンナが店の中から顔を出す。
腕まくりに、小麦粉の白い粉が光っている。
きっと夜明けより先に、火を起こしていたのだろう。
「おはようございます!」
「元気だね。今日は自分のパンを焼いてみな」
「自分の、パン?」
「そう。昨日までは手順を覚える仕事。今日からは工夫する仕事。味でも形でも香りでもいい、何か自分らしさを入れてみな」
私は目を瞬かせた。
自分らしさ。貴族の頃なら、いくらでも取り繕えた言葉。でも、今は何も持っていない気がして、胸の奥が少し痛い。
「できるかしら……」
「できるさ。パンは人に似る。迷えば迷うほど、顔が出るもんだよ」
ハンナは笑って、奥の棚を指さした。
昨日まで私が手伝って焼いた丸パンたちが並んでいる。どれも同じ形、同じ色。
完璧だけど、誰のでもないパンだった。
◇ ◇ ◇
粉を計る手が、少しだけ震える。
セシルは黙って見ている。
その沈黙が、妙にあたたかい。
「お嬢様。昨日、窯の温度を下げた判断は正解でした」
「……あなた、失敗したことをまだ根に持ってない?」
「事実申告です。ですが、失敗を観察できる人は、二度と同じ失敗をしません」
「……褒められてる気がしないけど、ありがとう」
笑いながら、生地をこねる。
昨日よりも手が馴染む。
粉が柔らかく息をしているようで、指先が嬉しい。
ふと、窓から陽が差した。
冬の朝の淡い光。粉の粒が金色に光る。
その光に照らされる生地が、まるで生き物みたいに見えた。
「……この子、陽だまりパンって名前にしようかな」
「名前をつけるのは、愛情を注いだ証拠です」とセシル。
ハンナが笑って振り返る。
「いいね。陽だまりパン。焼き上がりが楽しみだ」
発酵中、私はふとセシルの手を見た。
指に、火傷の跡。古い傷。
彼は気づかないふりをして、砂時計をひっくり返す。
「……セシル、あなた、料理できるんでしょう?」
「多少。焦がさない程度には」
「どうして最初から教えてくれなかったの?」
「お嬢様ができるようになる過程を奪いたくなかったので」
「あなたって、ほんとに面倒な人ね」
「事実申告です」
そのやりとりに、ハンナがくすりと笑う。
店の奥に、パンが膨らむ音が広がっていった。
◇ ◇ ◇
焼き上がった陽だまりパンは、きつね色というよりも、少しだけ薄い金色。
焦げの香りもなく、やさしい甘みが店の空気を満たす。
「……焼けた」
「いい色だね」
ハンナが手でそっと持ち上げ、切り口を覗く。
中はふわりと柔らかく、陽の匂いがする。
「食ってみな」
「えっ、私が?」
「焼いた奴が一番に味を見るの。怖い?」
「少し……」
「怖いってのは、ちゃんと命がけで作った証拠さ」
私はひと口、かじった。
外は少しぱりっと、中はやわらかい。
舌の上で、塩と甘さがゆっくりほどけていく。
涙が出そうになる。昨日までの苦さが、全部報われた気がした。
「……おいしい」
「だろう?」ハンナが笑う。「パンは正直だよ。頑張ったぶんだけ膨らむ」
「セシル、食べてみて」
「お嬢様が焼いたパンを? 僭越ながら」
「僭越でもいいから」
彼はひと口かじり、静かに目を閉じた。
そして、わずかに頷く。
「……確かに、陽だまりの味です」
「でしょ?」
「事実申告です」
窓の外、雪がちらついていた。
けれど店の中は、焼きたての匂いと笑い声で満ちている。
没落しても、寒さの中にこんなぬくもりがあることを、私は初めて知った。
◇ ◇ ◇
昼休み、ハンナが丸パンを並べながら言った。
「エリ。お前のパン、今日の分のまかないに入れとく。ついでにお客にも試し売りしてみよう」
「試し売り!?」
「ダメでもいい。世の中、食べてみなきゃ分からないもんだよ」
昼過ぎ、店に来た少年が一つ買っていった。
頬を膨らませて食べ、ぽそりと一言。
「これ、あったかい味がする」
その言葉を聞いて、胸の奥が少し熱くなった。
◇ ◇ ◇
夕方、片づけを終えたあと。
ハンナが今日の分の硬貨を手渡してくれる。
「よく働いたね。ほら、今日は特別に陽だまりパンの売り上げも入ってるよ」
「えっ、ほんとに!?」
「三個しか売れなかったけど、評判は上々だ。明日も焼いてみな」
「はいっ!」
硬貨を握る手が震える。
それはお金の重さではなく、自分で作った価値の重さだった。
外はすでに薄暮。
街灯がぽつぽつと灯り始める。
セシルが隣で、小さく息をつく。
「お嬢様。焦げゼロ、爆発ゼロ。完璧です」
「当たり前よ。もう気合い過多は卒業したの」
「事実申告です。……ですが、少々情熱過多では?」
「うるさいわね!」
二人の声が、夕焼けに溶けていく。
パン屋の窓からこぼれる光は、まるで本物の陽だまりのように、街角を照らしていた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入日給+10
収入試作パン販売分歩合+3
支出自腹(試作用小麦粉)−2
合計+11
借金残高24,977 → 24,966
セシルの一口メモ:
失敗パンの再利用。経済的損失ゼロ、精神的学習効果プラス。上出来です。




