第29話 商人連合本部へ
商人連合の面談当日の朝。
王都の空は澄み渡り、街路の石畳は朝日を反射して白く輝いていた。
胸の奥がずっときゅっと締め付けられている。
昨日の夜は緊張でほとんど眠れなかった。
「エリ、深呼吸」
隣でハンナが言う。
「吐いて、吸って。ほら」
「は、はい……!」
「大丈夫。いつも通りにやればいいんだよ」
そう言ってくれるハンナの言葉に支えられながら、
麦猫堂の奥で、私は最後の仕上げをしていた。
今日持っていくのは三つ。
陽だまりパン
月うさぎパン
お茶菓子用の小型ミニパン
いずれも私なりの全力だった。
◇ ◇ ◇
「お嬢様、準備は整いましたか」
「……うん」
振り返ると、セシルがいつもの黒い服に身を包み、
背筋を伸ばして立っている。
その姿はまるで、どんな場にも臆さない影のように見えた。
「では参りましょう。馬車を手配してあります」
「馬車……!」
麦猫堂の前には、小ぶりで清潔な貸し馬車が停まっていた。
セシルの手配らしく、細やかな気遣いが行き渡っている。
「エリ、頑張っておいで」
ハンナが私の肩に手を置く。
「あんたのパンなら、ちゃんと届くよ」
「……はい! 行ってきます!」
私は籠を胸に抱きしめ、馬車へと乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
王都の中心部に近づくにつれ、街並みはどんどん豪奢になった。
高くそびえる塔。
大理石の門。
行き交う人々の衣装も、どこか華やかだ。
「セシル……すごい場所だね」
「はい。商人連合は王家とも取引を持つ、巨大組織です」
「そんなところに、私が……?」
「お嬢様が呼ばれたのです。誇ってよいことです」
柔らかい声。
しかしその横顔には、どこか鋭い警戒が宿っていた。
(守ろうとしてくれているんだ……)
そう思うと胸が少し温かくなる。
◇ ◇ ◇
馬車が止まったのは、巨大な円柱の建物の前だった。
白い壁に金の装飾が施され、重厚な扉が中央にそびえている。
商人連合本部。
「……お、おっきい……」
呆然とする私に、セシルがそっと手を差し出した。
「足元にお気をつけて」
私は彼の手を借りて馬車を降りた。
◇ ◇ ◇
建物の中に入ると、静かな空気と木の香りが漂っていた。
石造りの外観とは裏腹に、内部は温かみのある調度で整えられている。
「エリシア様ですね。お待ちしておりました」
受付にいた女性が微笑み、案内役の青年が現れた。
「本日はこちらへどうぞ。
まずは試食査定室へご案内いたします」
「し、試食……査定……」
喉がぎゅっとなる。
いよいよ本番なのだ。
廊下を歩くと、商人らしき人々が談笑している声が聞こえる。
その空気はどれも鋭く、経験の匂いがした。
(わたし……大丈夫かな)
不安が一気に押し上がる。
そんな時、隣で歩くセシルが小さく囁いた。
「お嬢様。肩の力を抜いてください」
「……でも」
「大丈夫です」
セシルは穏やかな眼差しを向ける。
「お嬢様のパンは誠実な味です。必ず誰かに届きます」
その一言で、胸の奥の震えが少し和らいだ。
「ありがとう、セシル」
「お礼には及びません」
セシルはすっと視線を前に向けた。
◇ ◇ ◇
試食査定室は、広いのに静かな部屋だった。
中央の長机には銀の皿と白い布が整然と並び、
まるで儀式のような荘厳さが漂っている。
「こちらにお並べください」
促され、私は陽だまりパンをそっと置いた。
月うさぎパン。
ミニパン。
手が少し震えたが、何とか整えて置ききった。
「このあと、商人連合の役員数名が来られます。
緊張なさらずに」
青年は微笑んだが、
その言葉は全然心に入ってこなかった。
(役員……数名……!)
鼓動が早くなる。
手が汗ばむ。
「お嬢様」
背後からセシルが静かに言った。
「私は、すぐ後ろにおります」
それだけで、少しだけ息ができるようになった。
(ありがとう、セシル……)
扉の向こうから足音が近づいてくる。
いよいよ、これが――私の大きな一歩だ。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入通常営業の日給(準備のため時短)+18
収入特別持ち込み手当(エリ個人分)+10
合計+28
借金残高23,549 → 23,521リラ
セシルの一口メモ
試食査定の場において、最も重要なのは落ち着きです。
お嬢様は十分に準備をされました。自信をお持ちください。




