表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/55

第2話 夜明け前、粉の匂い

夜がまだ終わらないうちに、鐘がひとつ鳴った。

 その音が、夢と現のあいだを切り裂く。

 ――セシルが、鳴っていた。


「お嬢様。起床の時間です。目覚ましセシル、定刻通りに作動いたしました」


「……あなた、音量が一定すぎて腹が立つわ」


「事実申告です。二度寝防止仕様になっております」


「……停止ボタンは?」


「ございません」


 枕を投げても、彼は微動だにしない。

 暗い部屋の窓から、かすかな朝の灰色が差し込む。

 外はまだ静まり返っているのに、麦の粉のような冷たい空気が、明け方の匂いを運んでいた。


「今日は初出勤です。焦げの再現は不要です」


「言わなくていいのよ……!」


 顔を洗い、髪を結う。

 鏡の中の自分は、もう侯爵令嬢ではなかった。

 代わりにそこにいるのは、眠気と少しの誇りでできた働く人の顔。


     ◇ ◇ ◇


 麦猫堂は、まだ街が眠っている時間から動き出していた。

 扉の前でハンナが腕を組んで待っていた。


「早いね、エリ。いい心がけだよ」


「おはようございます!」


「声もでかい。よし、合格。じゃ、今日の担当は裏だ」


「裏?」


「表で売るためには、まず裏で仕込む。粉を量って、混ぜて、まとめて、発酵させる。地味で、退屈で、間違えたら全部パー。仕事ってのは、大体そういうもんだよ」


「はいっ!」


「威勢がいいのはいいが、威勢じゃパンは膨らまない。気持ちは練るもんじゃなく、寝かせるもんだ」


 言いながら、ハンナは粉袋を肩で抱え、台の上にどさりと置いた。

 白い煙のように舞い上がる粉塵が、朝の光を斜めに切る。


「混ぜる順番、覚えてるかい?」


「小麦粉、塩、水、……気合い!」


「気合いは後半にしな!」


 ハンナが笑い、セシルは静かに頷く。

 私は袖をまくり、粉に手を入れる。

 指の間を抜ける感触は、昨日よりも確かだった。


「……この感じ、好きかもしれない」


「なら、いい仕事に出会ったんだね」


「でも、まだお金になってません」


「セシル、それを言うな」

 ハンナが笑いながら肩をすくめた。

 「パンは、気持ちが膨らんでから稼ぐもんだよ。」


「詩的な表現ですね」とセシルがぼそりと呟き、ハンナが「黙んな」と笑う。

 その空気が、少しだけ温かかった。


 そんな調子で始まった初出勤の朝。

 発酵室に生地を並べ、温度を見て、布をかける。

 初めて扱う大きな窯の前で、私は少しだけ息を呑んだ。


「火の加減、任せるよ」


「はい!」


 ハンナは奥で他の生地を捏ねている。

 セシルは店先の掃除を引き受けていた。

 私は一人で窯と向き合う。


 炎が息づく音。

 パンを包む熱気。

 その中に、昨日と同じ焦げの影を見た気がした。

 私は温度をほんの少し下げ、扉を閉め直す。――その瞬間。


 ばふん。


「……?」


 窯の奥で、奇妙な音。

 開けた瞬間、白い煙が勢いよく吹き出した。


「きゃっ!?」


 発酵しすぎたパン生地が、勢い余って爆ぜたのだ。

 窯の中は、まるで雪が降ったみたいに粉まみれ。


 ハンナが走ってきて、すぐに扉を閉めた。


「……まあ、初日はこれくらいで済めば御の字だね」


「ご、ごめんなさい……!」


「謝るより、掃除しな。火を止める。落ち着いてやれば、次は失敗しない」


 手際の良さに、私はただ頷くしかなかった。

 セシルが布を持って駆け寄る。


「お嬢様。やはり気合いの分量が多すぎたようです」


「あなた、ほんとに刺してくるのね」


「事実申告です」


 煙の中で笑いながら、私は布で粉を拭った。

 白い粉が光を反射して、まるで朝霧みたいに美しい。

 失敗すら、少しだけ優しく見える瞬間。


     ◇ ◇ ◇


 昼前。

 再び焼き上げたパンは、ふっくらときつね色に膨らんだ。

 表面の艶を見て、ハンナが頷く。


「よし。朝の失敗、取り返したね」


「ありがとうございます!」


「礼はまだ早い。午後も働くんだよ。昼食は、ほら」


 差し出されたのは、少し欠けた丸パン。

 まだ温かい。香りは、昨日よりも柔らかい。

 私はひと口かじる。ほろり、と崩れる。

 涙が出るほどおいしかった。


「……ハンナさん、これ、お金払わせてください!」


「バカだね、まかないだよ」


「まかない……」


「働いた奴は、食っていい。仕事ってのはそういうもんだ」


 胸が熱くなった。

 昨日の焦げも、朝の失敗も、全部この一口で報われた気がした。


     ◇ ◇ ◇


 夕暮れ。

 粉袋を片づけ、店を掃除し終えたとき、ハンナが硬貨を渡してきた。


「はい、今日の分」


「ありがとうございます!」


「あと、今朝の爆発パンの件な。自分で掃除したから、弁償は三割引きにしとくよ」


「……助かります」


「働いた分は、ちゃんと数字で返すのが筋だからね」


 苦笑いしながら硬貨を受け取る。

 セシルは外で、猫と戯れていた。

 麦猫堂の看板に似た、白と灰のまだら猫。

 その姿を見て、私は思わず笑った。


「セシル」


「はい?」


「あなた、猫にも事実申告してそうね」


「申告しました。撫でると癒やされますと」


「それは事実ね」


 街の灯がひとつ、またひとつ、灯る。

 今日も、少しだけ前に進んだ気がする。

 まだ借金は遠い。でも、数字の向こうに、香ばしい匂いがある。


     ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入日給・チップなど+13

合計+13

借金残高24,990 → 24,977


セシルの一口メモ:

お嬢様、給料袋を何度も開け閉めして確認する癖は早めに直しましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ