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第20話 小さな噂と、ひとりの優しい客

朝の麦猫堂は、祭りの日ほどではないが、いつもより少しだけ忙しかった。

 焼き上げたパンの香りが通りに広がると、それだけで客の足が自然と止まってしまう。


「エリ、これ持って出しておくれ」


「はい!」


 焼きたての陽だまりパンを籠に並べながら、私はふと気づいた。


「……あれ? 今日、なんだか知らない顔のお客さんが多くない?」


「そうだねえ」

 ハンナは生地を叩きながら肩をすくめた。

「あんたの雨の日の話が、近所じゃちょっとした噂になってるみたいさ」


「噂……?」


「弱ったお年寄りに、濡らさんように缶に入れてパン渡したってね。

 あの子は仕事が丁寧で気が利くって、昨日から聞くよ」


「そ、そんな話になってたの……」


 胸がそわそわと落ち着かなくなる。

 あの時はただ、そうした方がいいと思っただけなのに。


   ◇ ◇ ◇


 昼を少し過ぎたころ、店の扉が控えめに開いた。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、どこか上品な雰囲気の女性だった。

 白いエプロンをしているけれど、立ち方や仕草から長く使用人として働いてきたことが分かる。


「麦猫堂さんでよろしいでしょうか」


「はい、いらっしゃいませ。ご注文は?」


 女性は私をじっと見つめ、ふっと表情を和らげた。


「あなたが……エリシア様ですね?」


「えっ、な、なんで……」


 声が裏返る。

 背後でセシルがわずかに身構えた気配がする。


「噂を聞きまして。

 親切で腕のいい娘さんが働いていると。

 ぜひ一度お会いしたいと思っておりました」


「そ、そんな……腕なんてまだまだで……!」


「ふふ、謙遜がお上手ですね」


 女性はメモ帳を取り出し、軽く目を走らせた。


「実は本日、お屋敷で小さなお茶会がありまして、

 こちらの陽だまりパンをお出しできないかと思いまして」


「お茶会で……?」


「代金は正規でお支払いします。

 お店の焼きたてを取りに伺う形でも構いません」


 胸がとくんと跳ねた。


 私個人に仕事として声がかかったのは、初めてだった。


「エリ。やってみるかい?」

 ハンナがにやりと笑う。


「わ、私でよければ……ぜひ!」


「ありがとうございます。

 お名前はヒルダと申します。

 うちのお嬢様が柔らかいパンを好まれていて……」


(柔らかいパン……)


 私は昨日教わった生地の感触を思い返す。


「少しお時間をいただければ、ふんわり仕上げます。

 お嬢様の好みに合えばいいのですが」


 ヒルダは嬉しそうに目を細めた。


「楽しみにしております。三十分後にまた伺います」


 丁寧に礼をして、彼女は店を出ていった。


   ◇ ◇ ◇


「エリ、やるじゃないか!」

 ハンナが笑いながら背中を軽く叩く。

「お客さんの注文だけじゃなくて、個別の依頼まで来るなんて。

 立派なもんさ」


「……嬉しいです。本当に」


 胸の奥が温かくなる。


(私は、前に進んでるんだ……)


   ◇ ◇ ◇


 三十分後。

 ヒルダは約束通り戻ってきた。


 ふわりと焼き上がった陽だまりパンを大切そうに受け取る。


「素晴らしい香りです。

 これはきっと、お嬢様も喜ばれます」


「お気に召していただければ嬉しいです」


「またお願いするかもしれません。その時はぜひよろしく」


 丁寧に礼をして去っていく。


 その後ろ姿を見送りながら、私は小さく息をついた。


「……なんだか、夢みたい」


「夢ではありませんよ」

 隣に立っていたセシルの静かな声が落ちる。


「お嬢様は働いています。評価されるのは当然です」


「そうかな……」


「ええ。胸を張ってよい出来です」


 その言葉が、また胸を温かくした。


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入通常営業の日給+25

収入お茶会用パンの個別依頼料(半割がエリ分)+15

合計+40

借金残高23,881 → 23,841リラ


セシルの一口メモ

良い働きは必ず誰かが見ています。

それが噂となり、依頼となり、未来へつながるのです。

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