第16話 祭りの朝、屋台の火が灯る
春祭りの朝は、店の扉を開けた瞬間から空気が違っていた。
街全体がいつもより明るく、色とりどりの飾りが風に揺れ、
胸の奥までふわりと浮き立つような温かさが広がっている。
「エリ! セシル! 来たね!」
ハンナが店の奥から大きく手を振った。
「屋台の場所取ってきたよ! 市場広場の角、なかなかいい場所だ」
「本当ですか!」
「広場の角は人が流れやすいんですってね」
材料が詰まった木箱や調理器具を抱えて、私たちは屋台の場所へ向かった。
◇ ◇ ◇
屋台は白いテント布が張られ、
ハンナが用意してくれた小さな黒板には手描きの看板が掲げられていた。
【麦猫堂 本日の焼きたて】
陽だまりパン
焼きりんごパイ
クロワッサン
小麦の月うさぎパン
「すごい……本当に、お店って感じだわ」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
自分の働きが形になって、人前に並ぶ。
それがこんなに嬉しいなんて思わなかった。
セシルは黙々と準備を進めている。
炭の火起こし、焼き台の角度調整、生地の状態確認……
その冷静な背中を見ると、少し安心できた。
「あのね、セシル。私、今日は焦がさないからね」
「焼き台の前で宣言するのは、もっとも危険です」
「もー……信じてよ!」
「信じています。ただし監視もします」
本当にこの執事は、励まし方が癪にさわる。
◇ ◇ ◇
祭りが始まると、広場は一気に人で埋まった。
子どもが駆け回り、踊り子が舞い、
色とりどりの屋台が客を呼び込む声が響く。
「お嬢さん、これ二つとクロワッサン!」
「陽だまりパン、焼きたてあります?」
一気に行列が伸びた。
「すごい……!」
手が震えそうになるけれど、
セシルはいつも通り冷静で、客を淀みなくさばいていく。
「はい、ちょうど焼き上がりました。熱いのでお気をつけて」
「次のお客様はこちらへどうぞ」
流れるような所作。
完璧執事という肩書きは伊達じゃない。
私は焼き上がったパンを運び、売り、また焼き台を覗きこむ。
「いらっしゃいませ! 陽だまりパン、焼きたてです!」
自分でも驚くほど声が出た。
自然と笑顔になってしまう。
今この瞬間が、ただただ楽しかった。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎたころ、列の中から聞き慣れた声がした。
「……エリシア?」
振り向くと、そこにアデルが立っていた。
貴族時代の旧友。
もう昔の世界の人だと思っていたのに。
「あなた、本当に屋台やってるのね」
「うん。今はここが、私の場所なの」
アデルは驚いたように目を細め、それから柔らかく笑った。
「じゃあ、陽だまりパンを二つ。家族にも食べさせたいわ」
「ありがとう!」
本当に嬉しかった。
旧友が客として来てくれるなんて。
◇ ◇ ◇
夜。
祭りの灯りが消え、人の波が遠のいたあと、
屋台の前には売れ残りひとつなく、空のバスケットだけが残った。
「……完売したのね」
「ええ。見事です、お嬢様」
「ねえセシル。私、ちゃんと働けてた?」
「はい。誇れる働きぶりでしたよ」
「本当に?」
「……本当に」
胸がじんわり熱くなる。
今日という日は、きっと忘れない。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録項目内容金額
収入祭り屋台売上(個人分歩合)+240
収入屋台手当+60
合計+300
借金残高24,206 → 23,906リラ
セシルの一口メモ
お嬢様の笑顔を見ると、働く価値があると感じます。
焦がさず焼けたことも、今日は特筆すべき成果でしょう。




