第15話 祭り前夜の支度
春祭りまで、あと一日。
麦猫堂の厨房は、いつもの倍以上に熱気がこもっていた。
山のように積まれた小麦粉の袋。
何十個も仕込んだ生地が発酵台を占領し、
ハンナは腕まくりして生地を叩きつけている。
「エリ! そっちは丸めたらトレイに並べて!
セシルはクロワッサンの折り込みを頼む!」
「はいっ!」
「承知しました」
厨房の空気は慌ただしいけれど、どこか明るかった。
祭りの支度というだけで、みんなの心も浮き立つのだ。
私は生地をつまんで丸めながら、セシルの手元に目を向けた。
彼の動きは相変わらず完璧だった。
薄く伸ばしたバターを丁寧に折り込み、層を重ねていく。
その手の美しさに、ほんの少し見とれてしまう。
「お嬢様、丸める手が止まっています」
「ひゃっ……! いえ、その……休憩じゃないから!」
「分かっています。ですが、目線があからさまでしたので」
「してないわよ!」
顔が熱くなる。
慌てて生地を丸め直した。
◇ ◇ ◇
午後になると、屋台に必要なものを運び出す作業が始まった。
テント布、調理器具、値札、小さな黒板……
セシルが軽々と箱を二つ持ち上げる。
「本当に重くないの?」
「お嬢様が扱うよりは、はるかに安全です」
「それ、嫌味?」
「事実です」
やっぱりこの執事、口が悪い。
でも、その背中が頼もしいのは事実だった。
◇ ◇ ◇
日が暮れる頃には、準備もほぼ整った。
残っているのは、焼きたてをどう並べるかという演出の部分。
「ねえセシル。屋台ってどう並べたら、綺麗に見えるのかしら」
「結論から申しますと、お嬢様が並べた上で、私が直すのが最適です」
「それ私いらないじゃない!」
「いえ、最初の配置が大事なのです。
お嬢様の直感は、意外と侮れませんから」
「……それ、褒めてる?」
「もちろん」
意外と素直に言うものだから、胸が少しくすぐったかった。
◇ ◇ ◇
帰り際、ハンナが笑顔で背中を叩いた。
「二人とも、明日は頼りにしてるよ!
本番は忙しくなるけど、楽しみな!」
「はい!」
外へ出ると、夜風が優しく吹き抜けた。
祭りの準備で飾りつけられた街路樹が、淡い光を反射している。
「セシル」
「はい」
「……ちょっとだけ、不安もあるけど。楽しみね」
「大丈夫です。お嬢様が焦がさなければ成功します」
「最後に余計なの付け足したわね!」
二人の笑い声が、夜空に溶けていった。
明日、初めての自分たちの店が開く。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録項目内容金額
収入通常営業の日給+25
収入祭り前準備の追加手当+15
合計+40
借金残高24,246 → 24,206リラ
セシルの一口メモ
祭りの前日は、誰もが浮き足立つもの。
お嬢様の緊張をほぐす最善策は、焦げを出さないこと。




