第13話 噂の届くところ
麦猫堂の前には、いつになく客が並んでいた。
昨日の貴族街での出張販売が、どうやら王都中の噂になっているらしい。
少年の声が通りから聞こえる。
「侯爵夫人御用達のパン屋なんだってさ!」
「信じられないよな、下町の店だぞ!」
たぶん噂を広めたのはハンナだ。
あの人の口からなら、一晩で王都全域に届いても不思議じゃない。
セシルがトレイを並べながら、軽く肩をすくめた。
「まったく、火のつき方が早い街ですね」
「売れるなら歓迎でしょ?」
「善悪ではなく、速度の問題です。
噂とは、焦げたパンのようなもの。焼き直しがききません」
「……うまいこと言うのね」
そう口にしつつも、胸の奥にひっかかるものは消えなかった。
リースフェルトという名前が、久しぶりにどこかで囁かれ始めている気がしたのだ。
◇ ◇ ◇
王都中央宮殿。
静かな回廊の奥、金の髪を持つ青年が書類に視線を落としていた。
第一王子、ユリウス。
侍従が報告書を差し出す。
「殿下。貴族街の茶会にて、元貴族の娘がパンを焼いていたという話が出ております」
「元貴族の娘?」
「名は、エリシア=フォン=リースフェルトとのことです」
ユリウスの指が紙の上で止まった。
数秒の沈黙。
やがて小さく、誰にも届かない声が落ちる。
「……エリシアが、まだ王都にいたのか」
侍従はその呟きを聞き取れなかった。
ただ、机の上の茶が静かに冷めていく音だけが残った。
◇ ◇ ◇
同じころ、私は焦げそうなトーストと格闘していた。
「お嬢様、三秒後に焦げます」
「分かってるわよ!」
額に落ちた小麦粉を払うと、頬にふわりと別の粉が飛んだ。
セシルがそっと指で拭う。
「粉です」
「知ってるわよ!」
焦げた匂いが、どこか甘く感じるのは気のせいだろうか。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録(第13話)
項目内容金額
収入通常営業の日給+20
収入販売歩合(増客分)+35
合計+55
借金残高24,346 → 24,291リラ
セシルの一口メモ
噂はパンに似ています。
一度焼き上がれば香りは止まりません。
そして時に、思いがけない人を呼び寄せるものです。




