エピローグ―陽だまりは、今日もそこに
朝の陽が、変わらず麦猫堂の窓を照らしていた。
扉を開ける音。
粉袋を抱える感触。
焼き台の熱。
どれも、昨日と同じ。
エリはエプロンを結び直し、深く息を吸った。
借金は、もうない。
けれど、生活が急に変わったわけではなかった。
「おはよう、エリ」
ハンナがいつもの調子で言う。
「おはようございます」
返事も、いつも通り。
それが、少しだけ不思議で、少しだけ嬉しかった。
◇ ◇ ◇
午前中の忙しさが落ち着いたころ。
常連の客が、笑いながら言った。
「今日もいい匂いだねえ」
「ありがとうございます」
それ以上でも、それ以下でもないやり取り。
でも、エリは知っている。
この何気ない言葉の積み重ねで、
ここまで来たのだということを。
◇ ◇ ◇
裏口で、セシルが帳簿を閉じる。
「数字は、安定しています」
「そっか」
エリは頷いた。
以前なら、その言葉に緊張していた。
今は、胸の奥が静かになるだけだった。
「無理はしません」
「ええ」
短いやり取り。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
夕暮れ。
店の前に立ち、エリは通りを眺める。
貴族街でも、商人街でもない。
この場所が、今の自分の居場所だ。
過去は消えない。
名前も、出自も、完全に切り離せるものではない。
でも、それらはもう、足を縛る鎖ではなかった。
「明日も、焼く?」
ハンナの声が背後から飛ぶ。
「はい」
即答だった。
焼いて、売って、暮らしていく。
それを選び続ける。
それが、エリの答え。
◇ ◇ ◇
夜、戸締りを終えたあと。
セシルが、ふと立ち止まる。
「エリ」
「なに?」
「これから先、また選択を迫られる時が来るでしょう」
エリは、少し考えてから言った。
「その時は、その時に考えるよ」
「……そうですか」
「うん。一人じゃないしね」
セシルは、ゆっくり頷いた。
◇ ◇ ◇
灯りが消えた麦猫堂。
その中で、陽だまりの温もりだけが、確かに残っている。
大きな成功の物語ではない。
劇的な逆転でもない。
けれど、確かにここにある日常。
エリは、その中で生きていく。
今日も。
明日も。
陽だまりは、これからも、ここにある。




