最終話 陽だまりの先へ
朝の光が、麦猫堂の店先をやわらかく照らしていた。
いつもと同じ時間。
いつもと同じ仕込み。
けれど、エリの胸の内だけが、少し違っていた。
帳簿は、もう閉じられている。
数字は、そこに並んでいない。
並べる必要がなくなったからだ。
◇ ◇ ◇
「エリ、これで最後だね」
ハンナが、焼き上がったパンを見ながら言った。
「うん……最後の返済」
エリは、小さく息を吸う。
何度も想像した瞬間なのに、
現実になると、胸が静かに震えた。
セシルが、いつも通り隣に立つ。
「準備は整っています。
あとは、渡すだけです」
返済のための袋は、重すぎず、軽すぎない。
この数か月、パンを焼き、売り、積み重ねてきた時間の重さだった。
「行こうか」
エリが言うと、二人は自然に歩き出した。
◇ ◇ ◇
商人連合の窓口は、いつもと変わらない静けさだった。
書類を確認した係員が、はっきりと頷く。
「……確かに受領しました。
これにて、負債は完済です」
その言葉が、空間に落ちる。
エリは、一拍遅れて息を吐いた。
「あ……」
それだけで、胸がいっぱいになる。
セシルが一歩下がり、深く一礼した。
「ご対応、ありがとうございました」
外に出ると、空がひどく高かった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
エリは、足を止めて空を見上げた。
「……終わったね」
「はい」
セシルは、淡く微笑む。
「ですが、終わりというより……
立ち位置が変わった、と言うべきでしょう」
「そっか」
エリは、小さく笑った。
「借金がなくなっただけで、
私が私じゃなくなるわけじゃないもんね」
「ええ」
それは、とても自然な言葉だった。
◇ ◇ ◇
麦猫堂に戻ると、ハンナが腕を組んで待っていた。
「顔見りゃ分かるよ」
「……うん」
「全部、返したね」
ハンナは、それ以上は聞かなかった。
ただ、いつもの調子で言う。
「じゃあ今日は、祝いパンだ。
形は不格好でもいい。好きに焼きな」
エリの胸が、じんわり温かくなる。
「はい!」
◇ ◇ ◇
夕方。
店の裏口で、エリは一人、風に当たっていた。
(逃げなかった)
(投げなかった)
(でも、無理もしなかった)
それが、今の自分の答えだった。
セシルが静かに隣に来る。
「次は、どうなさいますか」
少しだけ考えて、エリは言った。
「今と同じ。
パンを焼いて、売って、暮らす」
「それで、よろしいのですか」
「うん」
エリは、はっきり頷いた。
「それが、私の選んだ先だから」
セシルは、わずかに目を細める。
「……では、これからも」
「よろしくね」
その言葉は、主従でも、条件でもなく、
肩を並べる人へのものだった。
◇ ◇ ◇
夜。
店の明かりを落としながら、エリは最後に帳簿を手に取った。
もう、借金の欄はない。
けれど、そのページは破らない。
(ここまで来た証だから)
そっと閉じて、棚に戻す。
外には、変わらず街の灯りが続いている。
エリは、ゆっくりと息を吸った。
陽だまりの中で働く日々は、
まだ続く。
でももう、それを脅かす鎖はない。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(通常) +52
支出 借金最終返済 -52
合計 ±0
借金残高 0リラ(完済)
セシルの一口メモ
返し終えたのは、借金だけではありません。
恐れも、後悔も、過去の肩書きも。
残ったのは、あなたが選び続けた日々です。
――完――




