第129話 引く線、越えない一歩
帳簿を閉じる音が、いつもより小さく響いた。
数字は、確実に減っている。
残りも、もう手の届く場所にある。
けれど――
エリは、安堵よりも先に、別の重さを感じていた。
(これ以上は……違う)
数字の問題ではない。
増やすことも、広げることも、もうできる。
それでも、胸の奥が静かに拒んでいた。
◇ ◇ ◇
朝の仕込みを終え、麦猫堂の奥で三人が向かい合う。
ハンナは腕を組み、セシルは静かに立ち、
エリは机の上の紙を見ていた。
そこに書かれているのは、新しい話ではない。
これまでに向けられてきた条件、依頼、注目。
それらを、エリ自身が整理したものだった。
「増やさない、って書いたね」
ハンナが言った。
「うん。取引先は増やさない。
今の規模を超える話は受けない」
「逃げじゃないよ、それは」
ハンナは、はっきり言い切る。
「商売には、広げる勇気と、引く勇気がある。
今は……引くほうを選んだだけさ」
エリは小さく息を吐いた。
「私、条件を出すって言ってたけど……
新しい条件じゃないんだよね」
「ええ」
セシルが頷く。
「これは既に示してきた姿勢を、明確な線にしたものです。
越えない線を、自分で決めた」
机の紙には、静かだがはっきりした意思が並んでいた。
量は限定。
評価は受ける。
だが、運営・介入・人の配置には応じない。
「これで終わらせる、ってことだよね」
エリが言う。
「はい」
セシルの声は穏やかだった。
「これ以上広げない。
ですが、曖昧にもさせない」
ハンナは少し笑った。
「面倒な娘になったねえ」
「いい意味で、ですよね」
「もちろんさ」
◇ ◇ ◇
昼前、店先に立つエリの視線は、売り場ではなく通りを見ていた。
人の流れ。
視線の動き。
近づいてくる気配。
以前なら、全部を不安として受け取っていた。
今は違う。
(選ばない、って選択もある)
そしてそれは、逃げではない。
その隣に、セシルが立つ。
「どこに伝えるかで、悩んでいますね」
「うん」
エリは頷いた。
アークに渡すか。
ルチアに話すか。
どちらも、間違いではない。
けれど、順序がある。
「今日は……まだ出さない」
エリはそう言った。
「線を引いただけ。
それを渡すのは……明日以降」
セシルは静かに一礼する。
「それが、今の最善でしょう」
◇ ◇ ◇
夕方。
仕込みの手を止めたハンナが、ぽつりと言った。
「エリ。
あんた、やっと商売人の顔になったよ」
「え」
「増やしたい顔じゃない。
守れる量を、ちゃんと知ってる顔だ」
その言葉が、胸に残った。
(これでいい)
まだ終わらない。
でも、終わらせ方は見えた。
エリは紙を畳み、そっと引き出しにしまった。
越えない線は、もう引いた。
あとは――
どこへ、どう渡すかだけだ。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(通常) +48
支出 — 0
合計 +48
借金残高 残りわずか(※最終清算間近)
セシルの一口メモ
引く線を持てた者は、
もう流される立場ではありません。
次は、その線を誰に示すかです。




