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第127話 山を越えた顔

夕方の麦猫堂には、焼き上がったパンの匂いと、

一日の終わりを告げる静けさがゆっくりと満ちていた。


最後の鉄板を片づけ、

エリは深く息を吐く。


「……終わったぁ」


思ったよりも力の抜けた声だった。


「お疲れさま」

奥からハンナが顔を出す。

「今日は動きっぱなしだったねえ」


「はい。でも……嫌な疲れじゃないです」


エリはエプロンを外しながら答えた。

体は重たいのに、胸の奥は不思議と軽い。


パンを焼き、売り、

条件を考え、突きつけられ、

それでも一日を終えられた。


その積み重ねが、

ようやく自分の中で形になり始めている気がしていた。


「ふうん」


ハンナはエリの顔をじっと見て、

それから、ふっと口元を緩めた。


「……山、越えた顔してるね」


エリは一瞬、目を瞬いた。


「え?」


「前はさ」

ハンナは腕を組む。

「毎日、どこか追われてるみたいな顔してた。

 今日のあんたは違う」


ゆっくり、言葉を選ぶように続ける。


「忙しさは増えてるのに、

 足元を見る余裕がある顔だよ」


エリは、言葉を失った。


(……そんなふうに見えてたんだ)


借金の数字も、

外からの圧も、

条件の重さも、

何一つハンナは知らない。


それでも――


「ありがとうございます……」


自然と、そう口にしていた。


「何言ってんだい」

ハンナは軽く笑う。

「パン屋はね、顔に出るんだよ。

 余裕が出ると、焼きも安定する」


「じゃあ……」


エリは冗談めかして言う。


「今日のパンは、合格でした?」


「上々」

即答だった。

「売り場の空気も、厨房の手触りも、いい」


そのやり取りを、少し離れた場所で見ていたセシルが、

静かに一礼する。


「本日はありがとうございました」


「はいはい」

ハンナは手を振る。

「エリを頼むよ。まだ先は長そうだからね」


「承知しております」


二人の会話を聞きながら、

エリは胸の奥で、小さくうなずいた。


(うん……長い)


一気に終わる話じゃない。

逃げ切れる話でもない。


それでも。


(私は、前に進めてる)


パンの匂いに包まれたこの場所で、

自分の足で立ち、

条件を考え、

明日を選ぼうとしている。


閉店準備が終わり、

外の灯りが一つ、また一つと消えていく。


エリは扉の前で、そっと振り返った。


「……また明日、頑張ろう」


誰に言うでもなく、そう呟く。


その背中を、

セシルは変わらぬ距離で見守っていた。


本日の収支記録


項目 内容 金額リラ

収入 店頭販売(通常・安定) +45

収入 定期納品分(クレアル邸) +40

合計 +85


借金残高 ※前話から着実に減少中


セシルの一口メモ


数字を知らぬ者ほど、

変化を正確に見抜くことがあります。

今日の言葉は、重さではなく、

進んだ距離を測ったものなのでしょう。

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