第126話 数字が、毎日になる
朝の麦猫堂は、いつもと変わらない匂いに包まれていた。
粉と酵母と、ほんの少しの甘さ。
けれど、エリの胸の奥は、昨日までとは違っていた。
(今日は……いくつ焼くんだっけ)
壁際の黒板を見る。
そこには、チョークで整理された予定が並んでいた。
・店頭販売
・クレアル邸 定期納品
・連合向け注文(条件付き)
数が、ただの「挑戦」ではなくなっている。
流れとして、日常に組み込まれ始めていた。
◇ ◇ ◇
「……これ、無理してないよね?」
仕込みの合間、エリはぽつりと尋ねた。
「無理してる時の顔じゃないね」
ハンナが即答する。
「前はさ、数字が増えるたびに肩が上がってた。
今は……ちゃんと呼吸しながらやってる」
エリは、自分の手元を見た。
生地は素直に伸び、指先に逆らわない。
「続く感じ、します」
その一言に、ハンナは何も言わず頷いた。
◇ ◇ ◇
午前の店頭販売は、静かに、しかし確実に進んだ。
「この前のパン、朝にちょうど良くてね」
「また同じの、ある?」
声を張り上げる必要はない。
名前も、噂も、もう十分に届いている。
エリは笑顔で包みを渡しながら思う。
(売れてる……じゃなくて)
(回ってる)
数字が「点」ではなく、「線」になっている感覚。
◇ ◇ ◇
昼前。
納品を終えて戻ると、帳簿の前にセシルが立っていた。
「確認しました」
静かな声だった。
「店頭・納品・連合分。
今日の配分は、どれも無理がありません」
エリは、少し緊張しながら尋ねる。
「……じゃあ」
セシルは頁をめくり、はっきりと言った。
「これは、一時的な上振れではありません。
日常として成立しています」
胸の奥で、何かがほどけた。
(数字に追われてない……)
追いかけているのではなく、
積み重ねているだけ。
◇ ◇ ◇
夕方。
店を閉める前に、エリは帳簿を見下ろした。
赤字だった欄は、もうどこにもない。
借金残高の数字も、はっきり減っている。
「……これ」
小さく声を漏らす。
「初めてだね」
ハンナが隣から覗く。
「続く前提で数字を見てる顔」
エリは笑った。
大きくはないけれど、確かな笑みで。
「やっと……返せる、って思えます」
セシルが、静かに補足する。
「焦らずとも。
このまま行けば、終わります」
断言ではなく、事実の確認として。
その言葉が、何より重かった。
◇ ◇ ◇
夜。
厨房の灯りを落とす前、エリは立ち止まった。
(特別なことは、何もしてない)
焼いて、売って、届けて。
ただ、それを続けているだけ。
それで、数字は毎日になった。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入店頭販売+95
収入定期納品(クレアル邸)+120
収入連合向け取引(条件付き)+85
合計+300
借金残高
21,400 → 21,100 リラ
セシルの一口メモ
数字が習慣になった時、
それはもう「勝負」ではありません。
終わりに向かう過程です。




